イスラエル回復預言を過去のものと解釈することは不可能である
> デマーはフル・プレテリストにオープン(R.C.スプロール.Srも)ですが、パー
> シャル・プレテリストのままです。バイブル・アンサーマンでの2回に渡る出演
> の時、ハンク・ハネグラフが「まだ終わっていない預言は何ですか?」との質問
> に、デマーは使徒行伝1:11、1テサロニケ4章、1コリント15章と答えま
> した。ですから、彼はフルプレテリストではありません。ただ、ローマ11章を
> 上げなかったのは、それが成就したと信じているからか、その箇所をたまたま上
> げなかっただけなのかは放送からだけでは分かりません。
ゲイリー・デマーが、パーシャル・プレテリストのままであると聞いて安心しました。
しかし、パーシャル・プレテリストのままで、なおかつ、ローマ11章を過去のこととすることは、恐らく釈義的に不可能と思われます。
ローマ11章は、<はっきりと>民族的ユダヤ人のことを述べています。
「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、<アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身>です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。」(ローマ11・1-2)
ここで「イスラエル人」とは、「アブラハムの子孫に属」する者です。
アブラハムの子孫といっても、クリスチャンも霊的にアブラハムの子孫です。
しかし、「ベニヤミン族の出身」という言葉から、これが「霊的」ではなく、「肉的」なアブラハムの子孫のことを述べていることが分かります。
さて、イスラエルが回復するのは、紀元1世紀に起こったことなのか、それとも、未来に起こることなのか、という問題を探るには、「異邦人の完成」がいつであるかを見る必要があります。
聖書は、「異邦人の完成」→「ユダヤ人の回復」という順番があると述べているからです。
「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11・25-26)
もし、イスラエルの回復が紀元1世紀に成就したとゲイリー・デマーが考えているとすれば、彼は、紀元1世紀に異邦人が完成したことを証明しなければなりません。
はたして、紀元1世紀に異邦人は完成したのでしょうか。
異邦人の完成は、次の聖句と関係しています。
「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21・20-24)
ここで、「エルサレムが軍隊に囲まれる」というのは、(プレテリストであるならば、)紀元70年の出来事であると分かります。いわゆる「大患難」です。
ということは、「異邦人の時」は、紀元70年以後にあると分かります。そして、その後に、「エルサレムが異邦人に踏み荒らされ」るということは終止し、それは、「剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」る状態から回復されたユダヤ人の帰還によって実現するということが分かります。
ここにおいて、ゲイリー・デマーなどの置換神学者やフル・プレテリストの「イスラエル回復預言は紀元70年までに成就した」という説は徹底否定されます。
これに対して、一体、どのような反論が可能なのでしょうか。
「ペンテコステにおける教会の誕生において、イスラエルは回復し、旧約聖書の数々のイスラエル回復預言は成就した」(*)という意見を根拠にしたとしても、「異邦人の時」が紀元70年以降であるとするイエスの発言を説明できません。
やはり、私たちは、「イスラエルの回復は未来のことである」と結論せざるを得ません。
(*)
プレテリズムに立つ置換神学は、アモス9章の「イスラエルの帰還預言」は、使徒15・16のヤコブの言葉において成就したと考えます。
「ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』」(使徒15・13-18)
それゆえに、プレ・ミレやイスラエルの回復を信じるポスト・ミレの人々が、「イスラエルは再度パレスチナに帰還して国を再興する」との主張の根拠となる旧約聖書の数々の「イスラエル回復預言」は、すべて紀元1世紀に成就したのであり、それ以後、イスラエルの帰還はない。だから、1948年のイスラエル建国は、聖書的に何の意味もない、と言います。
03/02/04