聖霊のないキリスト教は砂漠化の宗教である2

 

神は、すべてのことを聖霊によって完成させようとしておられる。

資本主義も近代科学も、キリスト教(とくにカルヴァン主義)の産物である。

これは、もともと、「地を従えよ」との文化命令から発したものだ。

しかし、近代は、宗教改革だけではなく、人間復興をも生み出してしまった。

人間復興とは、西洋の古典時代であるギリシャ・ローマ文化の人間重視の思想を復興させようとする運動である。(*)

そして、この人間復興は、次第に「神を排除した人間だけの理想郷」を求めるようになり、サタン的になっていった。

それゆえ、キリスト教から始まった資本主義も科学も、神を除き、人間の我欲に仕えるものと考えられるようになった。

神なき資本主義、神なき科学は、人間を奴隷にし、虐待するようになった。

ピューリタンが神の栄光を表すためにはじめた近代資本主義は、「他人をいかに利用して自分の利益を増やすか」という利己主義に堕した。

帝国主義の領土拡張戦争、植民地支配、自然環境破壊、労働者への搾取…。

神の栄光を表す文明を築きあげるために始まった科学は、人間の利己心を満足させためだけに利用されるようになった。

核兵器、進化論、クローン人間、無神論教育、人工中絶…。

聖霊がない人間が作る文明は、それがいかに理想郷を求めるものであっても、結局、人間を縛り、奴隷にし、滅ぼすことになる。

聖霊がある人間の体は、エデンの園であり、その内側には、命の泉がある。

この泉から人を癒し、人を回復する生ける水の川が流れる。

だから、文明はクリスチャンに主導される必要がある。

クリスチャンが逃げ腰で、この世界を捨ててしまえば、当然のことながら、内面においても外面においても砂漠化が進む。

クリスチャンは、聖霊が強く働くことを求め、その命の水によって、文化そのものを潤し、清めるために祈り、働くべきである。

神を失った文明を、神を中心とした文明に変えるために働くべきである。

イエス・キリストは「命の君(根源)」である。

イエス・キリストを失った学問、資本主義は、命のない学問、資本主義である。

我々は、イエス・キリストを中心とし、聖霊によって文明を完成しなければならない。


(*)
それでは、キリスト教とは人間を軽視するものなのか、というとそうではない。
中世ヨーロッパの人間軽視は、「霊を重んじて肉体を軽んじる」というギリシャ思想の影響である。

 

 

03/03/17

 

 

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