キリスト教のご利益宗教化

 

なぜこれだけ、こちらが、あたりまえのことを言っているのに、反対があるのか非常に不可解であるが、その理由は一つしかない。つまり、教会は非再生者に占領されたからである。

今日クリスチャンの間に流行している考え方を見てみよう。これらの考えは、どれをとっても自分の都合のよいようにできている。

1.神と聖書はあらゆる領域における生活と思考の前提ではない。

 すべてについて、聖書を前提として生活したり思考したいと思わないのは、自分の自由を妨害されたくないからである。政治、経済、科学など生活の諸分野において、神と聖書を前提に行動・思考していないのは、心の王座に自分が座っているからである。神と聖書を前提として首尾一貫した行動・思考をすると、義務に縛られたり、世間との摩擦が多くなったりして、負担が増えると考えているからである。

2.地上の統治者としての任務を否定。

 教会において、「地を従えよ」との任務が人間創造の中心目的であると説く説教者がいないのは、そのように言うと、教会に来ている人々に負担を与えることになると考えているからである。教会に来ている人々は、「恵み」の説教を望むが、「責任」の説教は望まない。

3.律法は廃棄された

律法を守ることを嫌うのは、自分が主権者になりたいからである。神の法に従いたくないのは、自分が神になっているからである。

4.裁きは歴史内に起こらない。

人間の行動に対して罰が下らない、それは死後(または再臨後)にある、とするのは、この地上において、歴史内において、神の介入を拒んでいるからである。神の介入を拒むのは、自分が神になっているからである。

5.この世を変えることはできない。

クリスチャンのやるべきことは、一人でも多くの人々に天国行きの切符を与えることであって、この地上世界を改革することではない、と考えるのは、自分の自由を妨害されたくないからである。自分の生活は、自分のためにあり、神のためではないと考えているからである。


このように、今日のキリスト教は、ご利益宗教化した。救いだけをいただいて、義務を厭うのは、真の意味において「再生」していないからである。神とは、自分にとって利用する対象でしかないという心理は、非再生者のそれである。

聖霊が内側にあれば、人間は、原初のアダムのように、神のために地上を支配することを喜び、そのために努力するようになるはずである。

上から下に至るまで、今日の教会は、非再生者に満ちている。ブライアン・アブシャイアが言うように、教会は、ノンクリスチャンに占領された。

 

 

03/04/20

 

 

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