聖書を絶対権威とできなければ信仰は破滅する
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何か誤解があるように思います。大筋でいえば、トミーさんと私は、一致>
に近いのではないでしょうか?一致点に関しては、敢えてお話ししなくてもと思>
い、強調しないだけです。>
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違う点をお話ししましょう。私の信じることは、聖書は教会(神の召しだしに預>
かり、御言葉を委ねられた個人の共同体)にもたらされました。聖書より教会が>
先です。その普遍教会に誤りがある以上、聖書の受け止め方も普遍教会の捉え方>
と同じでなければなりません。普遍教会は、神の選びにある点では、完全な神の>
言葉の継承体ですよね。と同時に、不完全な人間の集まりでもあります。>
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聖書に関しても、同様な見方が必要ではないですか?パウロの言葉は、預言の言>
葉として聖霊が働かれているときには、神の言葉になりますが、同時に、パウロ>
は、不完全な、上を目指して歩んでいる者にすぎませんとも言っているではあり>
ませんか?片方だけを強調すると、偏った見方になりませんか?聖書は、神の言>
葉であると同時に、パウロ神学にすぎません。パウロの理解を通して、神の完全>
な教えを述べているという見方が必要なのではありませんか?>
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私は、パウロ神学という視点を強調して話し、トミーさんは、神の言葉である点>
を強調しているだけではないのでしょうか?私は、聖書の啓示を無視しているわ>
けではありません。>
聖書の外的啓示と、聖霊の内的啓示の両方のバランスが大切だと考えています。>
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ただ、聖書の外的啓示を絶対視できないと言っているのです。普遍教会を絶対視>
できないように。でも、神様から委ねられている権威として、聖書にも普遍教会>
にも絶対的権威があると信じています。>
人間の言葉で話す場合、どうしても、言葉の規定の壁に阻まれざるを得ません。>
言葉の限界性を考慮しながら対話しないと、おかしくなりますね。>
トミーさんのいわんとすることよくわかります。教えられます。自分の欠けた点>
がよく見えます。とても感謝しています。>
私のいわんとするところもわかってください。教会が誤り多きものであるよう>
に、聖書への見方も同様でなければなりません。>
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「閉じた系」「開いた系」の話も、片方に偏ってみるよりも、両方あるとの見方>
が必要でしょう。生命のように生きたものには、常に開いたり閉じたりの動きが>
あります。>
私は、聖書は黙示録で、一端閉じられているとも信じています。「閉じた系」と>
しても見ています。>
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また、律法が無効になったとも考えていません。文字「面」に拘ることは、律法>
の精神に反するとイエス様も述べているではありませんか?文字を無視しなさい>
とは言っていません。>
安息日は、人間のために設けられたのであって、安息日のために人間が拘束され>
るのは、本末転倒です。同様に、律法はその精神に則ることが重要なのであっ>
て、文字通りでなければ駄目だとの見方は、律法全体の体系的な精神を歪めるも>
のだと考えます。>
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聖書も教会も共同体の対話関係が必要な在り方で成立していると思われます。一>
個人の意見の強調より、個人と個人の対話関係である、共同の合意点こそが、真>
理への道だと考えます。>
個人を無視する共同は、共同とは成り立ち得ないように、共同関係を無視する個>
人も、不幸な誤りに陥るものだと信じています。だからこそ、教会の権威ある声>
明にも耳を傾け、聖書の教えにも聞き、クリスチャンの個人の言葉からも聞こう>
とする、それが私の取るべき道だと信じています。私は、聖書の権威を無視して>
いるのでしょうか?バランスを欠いているのでしょうか?時にはそうだし、時に>
はそうではありません。そうは、思われませんか?>
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パウロの言葉とイエス様の言葉とは、分けて考え、受け止める。聖書の権威を絶>
対視しない。それが、信仰に反することなのでしょうか?プロテスタント神学に>
は反するでしょうね。>
私が唯一、絶対視しているのは、生きた神様だけです。>
それ以外のものは、不完全でもあるのですが、被造世界の中には完全な創造主の>
現れも垣間見られるともとらえています。>
迷い多き信仰生活にならざるを得ない立場ですが、固定するよりは良いと、私は>
この立場を変えることができません。(1)聖書という外的啓示の絶対性を否定すれば、共通の信仰は不可能である。
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聖書に関しても、同様な見方が必要ではないですか?パウロの言葉は、預言の言>
葉として聖霊が働かれているときには、神の言葉になりますが、同時に、パウロ>
は、不完全な、上を目指して歩んでいる者にすぎませんとも言っているではあり>
ませんか?片方だけを強調すると、偏った見方になりませんか?聖書は、神の言>
葉であると同時に、パウロ神学にすぎません。パウロの理解を通して、神の完全>
な教えを述べているという見方が必要なのではありませんか?パウロは不完全な人間です。それは、普遍教会が不完全であるのと同じです。
だから、パウロが語ったすべての言葉が正しいとは限りません。
しかし、パウロが聖書において語った言葉は正しいとしなければなりません。
そうでなければ、権威というものが不在になります。
人間が語った言葉は不完全だ、だから、聖書は不完全な誤り多き人間の教えに過ぎないということになれば、「どれが神の真理で、どれが誤り多き人間の言葉か」ということを人間が選択することになります。
そうなれば、各人各様の聖書ができあがります。
処女降誕を否定する論理実証主義者が手にする聖書は、処女降誕をすべて切り取った聖書です。
地獄や霊界を否定する唯物論者が手にする聖書は、ラザロと金持ちの個所が切り取られた聖書です。
このように各人がそれぞれ厚さの違う聖書を持てるということになれば、共通の信仰は不可能であり、教会に権威は不在になります。
(2)聖書という外的啓示の絶対性を否定すれば、人間はより頼むべき権威を失う。
何度も言うように、聖書啓示を丸ごと真理として受け取らない信仰は、啓示信仰ではなく、理性信仰になるのです。
逐語霊感を信じなければ、ギリシャ語原典の時制や語源を調べて、そこに神の御心を読み取ろうとする努力はすべて無駄であるということになります。
絶対不変の真理がなければ、各人が持てる聖書は、各人の自由な解釈を可能にする「参考書」であって、「権威の書」ではありません。
聖書を権威とできないのであれば、神も権威としないことになります。
なぜならば、権威ある神の言葉がどこに隠されているか、だれも「これだ!」と主張できないからです。
ある人が、「処女降誕こそ真理である。」と述べても、「いや、聖書は誤り多き人間が書いたものである。処女降誕は、当時の幼稚な科学知識しかなかった人々が、民衆をこけ嚇かすために、作り出した寓話でしかない。」と反論されれば、「私の意見が正しいかもしれないし、あなたの意見が正しいかもしれない。権威というものが固定されていない以上、誰もこれが真理だと主張できないのだから。」としか言うことができなくなります。
聖書を丸ごと権威と主張する我々は、あらゆる文字、あらゆる言葉一つ一つに、神の霊感が働いており、それゆえ、時制の使い方から、人称、主述関係、修飾関係、関係代名詞の使い方、その他一切について、神御自身の細心の選択があった、と考えます。
例えば、「わたしは、道であり、真理であり、いのちである。」と述べたイエスの言葉は、主語であるεγωが記されています。普通、ギリシャ語の文章では、主語を省略します。主語を書いている場合は、主語を強調する場合だけに限られます。
ですから、この個所は、「わたしこそ、道であり、真理であり、いのちなのだ。」と訳すべきなのです。
我々が手にしている聖書は、このような文法的な意味よりも、日本語としての流れの方を重んじているため、「わたしは」と訳されていますが、文法的に厳密な解釈をすれば、「わたしこそ」と訳すべきなのです。
もし、聖書を絶対的な権威、文法まで霊感されているという信仰がなければ、このような釈義学は不要になります。どの言葉を用いようが、どの時制を用いようが、誤り多き人間の錯誤であると片付けることができるならば、
2000年の歴史を持つ原典聖書の釈義の積み重ねは一切空しいということになるのです。これは、教会を重んじているということにはなりません。
また、イエスが大祭司の庭において、裁判にかけられたときに、「あなたは神の子キリストですか?」と尋ねられ、「わたしはそれである。」と答えましたが、この「わたしはそれである。」という言葉は、εγω
ειμιです。これは、旧約聖書の「我は存在する」という神の御名のギリシャ語訳であり、ここにおいて、イエスは、「わたしは、モーセに現われた『我は有りて在る者なり』の神と同一である」ということを告白しています。日本語訳ではなかなか分かりづらいですが、原語にはこのような、神学的な含みを持つ言葉が多用されています。
もし、原語の一字一句が霊感されているとしなければ、このような含みは無意味です。
「それは、単に当時の教会人の信仰の現われだろう。」「それはたまたま聖書記者が偶然に書いただけだろう。」ぐらいのことしか言えないのです(しかしながら、εγω
ειμιはイエスが様々な場所において何度も用いている言い回しです。)。我々は、神は、原語の一字一句にまで細心の注意を払い、そこに御心を啓示しておられると信じているので、このようなイエスの告白に恐れを抱きます。
「やはり、イエスは、神御自身であった。モーセに現われたのはイエス御自身であった。」と告白することができます。
しかし、そのように考えない人は、「当時の教会人の思想の反映だろう。」「書き間違いだろう。」と片付けることができます。
そうなれば、聖書というものは、単なる「参考書」です。
人間が、「どれが神の言葉で、どれが人間の言葉であるかを判別できる」とするのですから、畏敬の念を持って、聖書を読むという態度は教会から消えうせます。
聖書が、普遍教会と同じレベルにおいて、誤り多きものであるとすれば、教会から聖書に対する畏敬の念は消えうせ、それゆえ、神に対する畏敬の念も消えうせます。
聖書の一字一句において神の霊感が働かれたということを認めないと、人間は、絶対的な権威を失います。
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パウロの言葉とイエス様の言葉とは、分けて考え、受け止める。聖書の権威を絶>
対視しない。それが、信仰に反することなのでしょうか?プロテスタント神学に>
は反するでしょうね。>
私が唯一、絶対視しているのは、生きた神様だけです。>
それ以外のものは、不完全でもあるのですが、被造世界の中には完全な創造主の>
現れも垣間見られるともとらえています。>
迷い多き信仰生活にならざるを得ない立場ですが、固定するよりは良いと、私は>
この立場を変えることができません。生きた神様だけを絶対視するならば、当然、生きた神様がどのように言われているのかを決定するための根拠が必要になります。
なぜならば、もし、聖書が権威ではないとするならば、では、神の意志を知るための権威は誰か、もしくは、何か、という問題になるからです。
つまり、「私は神だけを権威と信じる」とあなたが言われれば、
「じゃあ、その神の意志はどうやって分かるのですか?」と聞かれます。
「それは少なくとも聖書ではない。」と答えるならば、
「ということは、人間ですか?」と聞かれます。
「そうです。人間が対話の中において、聖書を参考にしながら神の意志を知ることができるのです。」と答えるならば、
「じゃあ、聖書を参考にしつつ行われる人間の対話によって得られた知識が絶対であるという証拠はどこにあるのですか?」と聞かれます。
「いや、それが絶対であるとは言えません。なにせ、人間はどこまでいっても有限であり、誤り多きものなのですから。」と答えるならば、
「それでは、神だけを権威とするというあなたの言葉には内容がないということになりませんか?」と尋ねられます。
お分かりでしょうか?
神だけが絶対であるといっても、その絶対者の絶対なる意志を間違いなく書き記した書物もなく、それを誤り無く語ることができる人間もないならば、また、神の絶対的な意志を示し、それにお墨付きを与えるものがどこにも存在しないのであれば、いくら絶対権威の神が存在するといっても、人間にとって何の意味もないのです。
「俺はこう思うなあ。」「わたしは、神から啓示を受けました。これが神の御心です。」と述べた人に対して、教会は一切権威ある言葉をどこからも得られないのですから、その考えや預言を判断することはできません。それゆえ、正しい教理と間違った教理の区別もつけることができないので、教会は誰をも受け入れなければならないということになり、「キリストへの純潔」は汚されます。
教会は、異端者を除名にすることもできませんし、殺人、姦淫を犯している教会員を除名できません。なぜならば、どこにも「絶対権威なる神の意志を知る術がないからです。」
「絶対権威である神がいることはわかるが、その神がどのように御心を啓示しているか誰も確固とした意見を言えない」というならば、教会は死滅します。
教会は、書かれた権威を必要とするのです。
その書かれた権威が、相対的な人間の相対的な言葉でしかないならば、教会は、「神の意志にしたがって、神の群れを治めることはできません。」
聖書が相対的な人間による相対的な言葉でしかないならば、教会はもとより、個々のクリスチャンの信仰は滅茶苦茶になります。
残念ながら、聖書を絶対規準としない人を異端者と呼ぶ以外にはありません。