無教会主義の間違い
内村鑑三の無教会は、当時の教会が堕落していることの反動として生まれたものですが、神学的な未熟から、教会の改革ではなく、存在そのものの否定につながっています。
例えば、礼典は、なにもパンでなくてもごはんでよい。洗礼は形式だから不要だ。
こういった、キリスト教の中から「肉体に属する事柄」を捨てて、霊化ともいうべき幼稚なギリシャ的異端の見解にはまり込んでしまった。つまり、いわば人間を霊と肉との部分から成り立つものとしてではなく、霊だけであるかのような解釈に陥ってしまった。
契約は、肉体の共有という基礎の上に成り立ちます。
クリスチャンであるということは、信仰によって、キリストの体にあずかるものとなったということを意味しています。
それゆえ、クリスチャンの肉体がどのような意味を持つかについて、聖書は多くのことを語っています。
御言葉の説教は知性で実を結ぶが、礼典は肉体に関して実を結ぶ。
キリストのパンとぶどう酒にあずかることは、キリストの体にあずかることであるとパウロは述べています。
洗礼は、キリストの体に連なることを示す。
アダムが堕落した際に、アダムの子孫だけではなく、肉体を共有している(つまり、そこから取られたので)土地ものろわれてしまった。
性交とは、夫婦の契約において不可欠の要素であり、それは、肉体の共有の上に成立する制度である。それゆえ、売春婦と関係を持つことによって、自分の体は売春婦の体となる。そして、体を共有するキリストの体である教会をも売春婦の体としてしまう、と述べられている。
それゆえ、礼典にはその独特の意味があって、単なる形式ではない。
礼典を否定して、礼拝を「聖書講義」という名前をつけて、大学の授業と同じような知的行為にしてしまっている無教会の立場が偏っていることを否定するものではありません。
しかし、だからといって、彼らがキリストを主として告白している以上、彼らも兄弟であることを認めないわけにはいきません。
彼らの著作を読めばそれは一目瞭然です。