頑固の刑罰は「頑固」である
明らかに聖書に記されている神の教えにノーと言うこと。
「○○せよ。」と言われる神に、「それはひどい。」とか、「これは、神の言葉ではない。」と述べること。
これは、一線を越える行為です。
人間には、越えてはならない一線があります。
例えば、父母を呪ったり、暴力を振るうこと。
人妻と不倫すること。
人の持ち物を欲しがり、それを横領すること。
こういったことは、人間として越えてはならない一線です。
彼(または彼女)は、人の道を踏み外したのです。
もしクリスチャンと自称する人がこのようなことをするならば、その人はもはやクリスチャンではありません。
こういうことをした人は、自分が越えてはならない一線を超えたことを悟っています。彼(または彼女)は、自分が地獄に値することをしでかしたということを本能的に知っています。
さて、人の道を踏み外した人が選択する次のステップは、2つあります。
(1)その罪を悔いて、神に告白し、赦しをいただいて、また正しい道に戻ること。
(2)その罪を覆い隠して、神から逃れ、あくまでも自分が正しいと主張すること。
(1)を選択した人は、破局を回避することができます。
しかし、(2)を選択した人は、破局を迎えます。破局を目の前にしている人の特徴は、「無茶苦茶なことを言って、横車をごりごり押す」ということです。
彼(または彼女)は、自分が正しいことを証明するために、聖書の内容すらねじまげて、「聖書は○○は正しいと述べている」と言い始めます。
アメリカでは、ホモセクシュアルですら、「聖書は、ホモを否定してはいない。」と言います。
自分の意見を絶対化するために、彼(または彼女)は、聖書の伝統的な解釈も、正統的と呼ばれている教理もすべて捨てて、理屈にもならない理屈を出して、聖書を無理やり自分の都合のよいように曲げてしまいます。
自分が無茶苦茶を言っていると気づいたら、まず、「罪をやめる」ことです。
そもそも、自分の罪の生活を正当化したいために、ごり押しをしているわけですから、その罪から離れることです。
罪から離れれば、自分の心のねじれが直ります。
心のねじれが直れば、ものごとを素直に評価できるようになります。だから、聖書を曲解する必要もなくなります。
聖書の一箇所をとりあげ、他の個所と矛盾する説を唱え、その解釈の間違いを指摘されても、頑固に主張しつづけるならば、ついに、「後戻りできない瞬間」が訪れます。
頑固者に対する神の刑罰は、「頑固」です。
エジプトの王パロは、モーセがイスラエル人を解放するように求めたにもかかわらず、心をかたくなにして拒否しました。
聖書は、「しかし、パロは心をかたくなにし、・・・」と述べています。
しかし、モーセの訴えが何度か続いた後に、聖書の言い方が変わっています。
「しかし、神がパロの心をかたくなにされたので、・・・」
おわかりでしょうか。
神からの警告を拒みつづけると、今度は、神が人の心を頑固にされるのです。
この状態になると、誰も彼を止める者はいません。
神が人を頑固にされたのですから、彼を立ち直らせることは不可能です。
あとは、破局しかありません。
人の道を踏み外し、罪に溺れ、罪から抜け出せなくなっても、悔い改めることによって、そこから逃れることはできます。
しかし、もし、そこから逃れることではなく、罪を犯しつづけることを願い、いかなる警告も無視しつづけるならば、彼(または彼女)は、神によって頑固にさせられます。無茶苦茶なことを言い始め、どんなに証拠をつきつけられても、悔い改めることをしません。
それは、「悔い改めない」のではなく、「悔い改められない」のです。
神の刑罰の領域に入ると、人は、頑固を直すことはできなくなります。
なぜならば、その人を滅ぼすことが神の御心だからです。