不倫について

 

 「不倫」という言葉は、文字通り解すれば「倫理的ではないこと」という意味である。

 ノンクリスチャンであっても、不倫が後ろめたいことであると自覚している。

 なぜだろうか。

 もし進化論が正しいのであれば、不倫をしても、けっして後ろめたい思いをする必要はない。

 本当に進化論が正しければ、人々は、「婚外交渉」を「不倫」とは呼ばないはずである。

 人間の性交渉に道徳の意識がつきまとうのは、神が結婚を聖なるものとして制定されたからである。

 性交渉は、夫婦の契約更新の儀式である。

 神の国を造る為に、夫婦は契りを結んで、霊肉ともども一体となり、くびきを共にして労働する。

 男性は、この世界を神の御心にかなったものに変えるために働き、女性は、それを助け、子供を育て、家庭を守り、夫と共に次世代の神の国建設者を準備する。

 二人は一人である。

 それゆえ、売春婦と交渉を持つ人は、自分の体を売春婦とすると聖書にある。

 そして、さらに、その人は、教会の一員であり、教会はキリストの体であるので、キリストの体を売春婦としてしまう。

 それゆえ、姦淫は、人間が犯す罪の中でとりわけ重大な罪なのだ。

 姦淫を犯す者は自分と教会に直接害を与える者である。

「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。…不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」(第1コリント6・15−18)

 

 




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