聖書のすべては生活のすべてのため

 

P.アンドリュー・サンドリン

 

 

編者注:このメッセージは1997年6月28日Lusaka, Zambiaで開かれたカルケドン・クリスチャン・カルチャー・カンファランスで話されたものです。

 

 今朝、私たちは小旅行に出かけたいと思います。聖書について話すことから始め、生活のすべての領域は聖書によって支配されなければならないことを示して終わりたいと思います。この小旅行を喜んでご一緒くださるならば、私がお連れする所に行き着くと確信しています。そこに含まれていることは驚くべきことで、人生と文化が変えられるようなことです。

 「聖書は神からの聖いことばでしょうか?」という質問に答えることから、この小旅行をスタートしましょう。クリスチャンならばだれでも、大きな声で、「その通りです」と答えられるでしょう。どうしてでしょうか?それは、聖書の中で、神がそのように教えておられるからです。聖書は神によって息が吹きかけられた、無謬のことばなのです(2テモテ3:15〜17、ヨハネ17:17)。どうして私たちは聖書は聖書によって証明されるということを強調するのでしょうか?それは、私たちが聖書以上に強調できる権威が他にはないからです。聖書が神のことばであることを証明するために何か他に強調すべき権威があるのでしょうか?教会でしょうか?しかし、教会は誤りを犯す人々で形成されています。無謬の書物を誤りを犯しやすい人間がどのようにして誤り無く証明することができるでしょうか?それでは、科学はいかがでしょう?聖書を証明するために科学に訴えかけるべきでしょうか?いいえ、違います。科学に間違いがあることは、再三指摘されて来ました。歴史的証拠はいかがでしょうか?聖書が語り、教えていることと一致する考古学的発見はどうでしょう?私たちはこれらのものに感謝しますが、いつもいろいろな解釈が施されるので、このような発見も聖書が正しいと証明できません。聖霊が私たちの心に真理の証印を押される時、霊感された無謬の聖書を唯一誤りなく証明できるのは、聖書そのものだと分かるのです。

 このような理由から、聖書は自らを権威付けると私たちは言うことができます。神の御霊によって救われた人はみな、聖書は神のことばだという神からの証を持つのです。クリスチャンは教会からも、理性からも、科学からも、考古学からも証明を得る必要はありません。神が心に真理を示してくださったので、真理を知るのです(1ヨハネ2:20、21、27)。どんなにたくさんの証明をしてもかたくなな心や目の見えない罪人には確信が与えられない(1コリント2:14、ローマ1:18)。逆に、どのような反証も、献身と従順を現わすクリスチャンの信仰を揺るがすことはできません(ローマ4:18)。聖書を唯一誤りなく証明できるのは、神の聖いみことばとしての聖書自身の証しなのです。ですから、聖書は人間に与えられた神のことばです。聖書自体が神から人間へのメッセージだと主張しています(2ペテロ1:19〜21)。聖書は人間に分かることばで書かれています。今日、私たちは自分たちの言語で神が霊感された、無謬のことばを持っています。また、生きた神のことばをすぐに手に入れることができるのです。

十全霊感

 聖書全体は神のことばです。第2テモテ3章16、17節では聖書はすべて神の霊感、「息を吹きかけられたもの」だと教えています。神が聖書の著者です。あるものは神のことばで、残りはそうではないと言っている箇所は聖書のどこにもありません。聖書のある箇所は、別の箇所よりも「より」神のことばだと言っているところもありません。例えば、ある人々は旧約聖書は新約聖書より神のことばとして劣ると言います。旧約聖書はイスラエルのためのもので、クリスチャンのためではないと言う多くの人々が今日います。しかし、新約聖書の記者たちもイエスも、そのようには旧約聖書を扱われませんでした。彼らの宣教活動の中で、旧約聖書は生活のすべての領域に対する神の権威だったのです。聖書の記者たちは、聖書全体を神のことばとして扱っているのです。

言語霊感

 聖書は霊感されていると言います。このように言う時に、それは記者たちが言いたいことを言うために神が彼らを霊感されたという意味だけではありません。聖書のことばは全く神のことばだという言う意味で私たちは使っています。これを言語霊感と言います(マタイ4:4)。聖書のことばを読む時、私たちは人間が書いた神のことばを読んでいるのです。聖書は人間のことばです。しかし、同時に神のことばなのです(使徒行1:16)。聖書を読む時、神のことばを読んでいるのだと私たちは確信することができます。

権威ある啓示

 もし聖書が神のことばなら、権威があります。聖書が語る神は天地の創造者であり、保持者である三位一体の神です(創世記1:1、コロサイ1:15〜17)。神はご自身の望まれることは何でもされます(詩篇115:3)。神は全能者です(創世記17:1)。すべてのことをご存知です(詩篇33:9)。人を造られました(創世記1:27)。人間に求めておられることを告げられます(ミカ6:8)。神はどのようにして人間に語られるのでしょうか?聖書の時代は夢や幻、また預言者によって語られましたが、今日は御子によって語られます(ヘブル1:1、2)。それは、聖書に記録された御子のことばによって語られるという意味です(マタイ24:35)。ですから、聖書は私たちが神はどのような方か、神は私たちに何を求めておられるのかを学ぶところなのです。聖書は神のことばなので、権威ある啓示なのです。

 また、聖書は戒めのことばです。学者たち、教授たちがつまらないあらさがしをすることが目的のものではありません。私たちが読み、従うためのものなのです(詩篇119)。

権威ある啓示の内容

 私たちが聖書を開くと、何を見るでしょうか?先ず、神がどのように天地万物を造られたかという話を見ます。そして、罪が世界に入り、神が贖いの計画を立てられたことを学びます。人類はますます罪深くなり、ノアという神を敬う人とその家族以外のすべての人を滅ぼす世界規模の洪水を神は送られます。それから、契約を結ぶために選ばれたもうひとりの神を敬う人アブラハムとその家族の話があります。神はアブラハムと、後にイスラエルと呼ばれるその子孫を選ばれました。旧約聖書の大部分は神がどのようにこの国を取り扱われたかについて書かれています。神は彼らを選び、愛されました。ところが彼らは罪を犯したのです。その罪のために彼らは裁かれました。旧約聖書全体を通して、神は救い主を約束されました。罪を取り去る究極的な方法であり、永遠の赦しを提供するためです。

 新約聖書においては、救い主である神の子イエスキリストについて書かれています。キリストがどのようにこの世に来られ、無惨な死を遂げられたかが書かれています。また、どのように人の罪のために死なれたのかが書かれています。そして、キリストを信じる者がみな、今もそして永遠に救われることが書かれているのです。キリストを信じた人たちは新しい神の民、新しいイスラエルとなるのです。新約聖書の多くは新しいイスラエルがどのように生きるべきかについて教えています。新約聖書の最後の書、黙示録はサタンとその使いたちは人類と地に対する神のご計画を打ち壊すことができないことを示しています。

人類と地に対する神のご計画

 それでは、人類と地に対する神のご計画とは何でしょう?新・旧約聖書の背後には神の王国、地上での神の義による統治という考えがあります。神はアダムに神の代理人となるように命令を与えられました。アダムは地上で支配権を行使すべきでした(創世記1:27、28)。しかし、アダムは失敗しました。ところが、神はノアに同じ務めを与えられたのです(創世記9:1〜3)。アブラハムとイスラエルをも同じように召されました(創世記22:17)。キリストイエスは究極的支配者(Dominion Man)です(詩篇110、使徒行伝2:34〜35)。信仰によってキリストと結び合された者みな、アブラハムの子孫です(ガラテヤ3:26〜29)。ですから、彼らは神の栄光のために地を管理するように召されているのです。

 このことを見落としてはなりません。神が地に人を置かれたのは神の権威のもとで、支配権を行使するためなのです。しかし、人は罪を犯したので、主イエスキリストという救い主が必要なのです。人が救われたのは、天国に行く準備のためだけではありません。人は地を管理するために救われるのです。贖われた人とは最初の召命への回復を与えられた人です。あなたがクリスチャンなら、これがあなたの人生の中心的使命です。あなたが置かれているところのすべての領域で、支配権を行使することです。私たちは神の権威の下で王であり、祭司なのです(黙示録1:5〜6)。

すべての人はすべてのことで、キリストのために支配するよう召されている

 もしあなたが夫であるなら、職場で働き、妻を養うべきです(1テモテ5:8)。また、キリストが教会を大事にされたように、妻を大事にするべきです(エペソ5:22)。もし父であるなら、聖書の教えに従って家族を養い育てるように召されています(エペソ6:4)。また、家庭での礼拝を指導し(出エジプト12:25〜28)、健全な聖書の教えをする教会に家族を連れて行かなければなりません(ヘブル10:25)。

 あなたがビジネスマンならば、お金を稼ぎ、キリストの王国の前進のためにそれを用いるように召されています(マタイ6:21、33)。自分の欲望に費やすためにお金を儲けてはいけません。貧しい人々や恵まれない人々を助けたりする敬虔な慈善活動のような働きを支えるためにお金を稼ぎましょう(1テモテ6:17〜18)。また、健全なみことばの教えと神の教会をサポートするように召されています(1コリント9:6〜12)。キリストの王国が前進するための働きをサポートするように召されています。あなたが稼ぐお金はあなた自身のものではありません。他のすべてのものと同様に、神のものなのです。ですから、みことばによって示されているところで使わなければなりません。

 あなたが教師なら、生徒たちを信仰に導くように召されています(テトス2:1)。このことは聖書の時間や宗教教育の時間だけの話ではありません。数学、国語、歴史、生物、コンピュータ・サイエンス、またどんな科目を教えるにも、クリスチャンとしてそれを教えなければなりません。これは聖書がすべての科目を支配すべきだということです。数学と他のすべての科目の土台としての聖書を持って教え始める先生は、聖書から始めない数学の先生と同じようには教えません。もちろんクリスチャンでない先生もクリスチャンの先生も、ある数学の事実に関して同意するでしょう。しかし、人生の意味を見い出すためにはクリスチャンでない人は神が与えてくださった事実に同意しなければなりません。すべての事実は神が与えられた事実であり、神が与えてくださった聖書の観点から教えられるべきなのです。クリスチャンであるということは、何をするにもクリスチャンであるべきだということです(1コリント10:31)。教師は神の栄光のために若者たちの心を形成するように召されているのです。

 あなたがキリスト教社会の政治家であるなら、あなたが置かれているところで神の律法を行なうようにと召されています。あなたは神の働き人(minister)なのです(ローマ13:4)。あなたは教会の牧師(minister)と同じなのです。教会の牧師(minister )は教会で働き、あなたは国のために働くのです。これはあなたが神の権威の下にいるということです。あなたの願い通りにはできないかもしれません。神は聖書の中に戒めを与えられたのです。為政者は神の律法を読み、公平に治めるようにと聖書は教えています(申命記17:18〜20)。また聖書が教えるように法律を制定するように召されています。どうして殺人、窃盗、レイプ、ゆすり(extortion)、誘拐、そして冒涜は罪であり、不法なのでしょうか?それは政治家がそのように言うからではなく、聖書がそのように語るからです。神のことばこそが、最終的基準なのです。聖書は他のすべての領域と同様に、政治においても最終の基準なのです。政治家はその権威の下にあるのです。

 あなたが医者であったり、医療関係者であるなら、治療の仕事に神の権威を行使するようにと召されています。神は他のすべてのものと同様に、人のからだを造られました(創世記2:7)。あなたは病気を治すために知恵と薬を用いるように召されています。また、人々が神の似姿に造られているゆえに、病人を癒す助けをするように召されているのです。あなたが人々が癒されていくのを助ける時、彼らは救いのメッセージを聞き、キリストに信頼し、みことばに従い、地上に神の王国が前進していくようになるのです。

 あなたが農民か他の労働者ならば、自分と家族を養うために一生懸命働くように召されています(伝道者9:10)。仕事で腕を上げ、もっと学ぶようにと召されています。それによって主のためにより多くのことができるようになるのです(1コリント7:21〜23)。キリストを知らない人々に福音を語るように召されています。キリストとキリストの働きのために十分の一をささげるように召されています(マラキ2:10)。それによって神の御国が前進するのです。

 あなたが弁護士か裁判官、また法律を施行する仕事をする人(law enforcement worker)ならば、神の律法に従って人々を取り扱うようにと召されています(イザヤ58:2)。あなたは不当に訴えられ、不当な苦しみを受け、不当な懲罰を受けた人々を助けるように召されています。公平とは正義の意味です。そして正義は聖書の律法の中に見い出されるのです(詩篇119:142)。

 もちろん、牧師や教会の働き人ならば、神のみことばを説教し、教え、キリストの群れを見守り、世話するために召されています(1ペテロ5:1〜3)。これを正しく行なうなら、自分の召命を達成しているのです。神の支配を現わしているのです。実際、この仕事はどうしたら最も神の支配を現わすことができるのかをクリスチャンに教えることなのです。クリスチャンはみことばによって自分自身を治めなければなりません。そして自分の仕事、学校、ビジネス、国をみことばによって治めるのです。牧師の仕事はこれをどうしたら最も上手くできるのかを教えることです。

 すべてのクリスチャンの本当の召命は神の栄光のために地を管理することです。どのような仕事であれ、キリストの権威の下で神のご支配を現わすという本当の仕事をする手立てなのです。

聖書と支配への召命

 これらすべてのことにおける聖書の役割とは何でしょうか?聖書はどのように支配を行なうべきかを教えてくれます。最初アダムに支配命令を促したのは神のみことばでした(創世記1:27〜30)。旧約聖書で、カナンの地でどのように支配を行なうべきかを教えたのも神のみことばでした。申命記のほとんどはそのためのものです。新約聖書では、肉の戦いによって支配を行なうのではなく(2コリント10:4)、神への従順(ルカ16:9〜12)と福音の宣教に(マタイ28:19〜20)よって支配をするように召されています。どのように行なうべきかをどこで学べばいいのでしょうか?もちろん、聖書からです(2テモテ3:17)。聖書は支配命令において語られているすべてのことがらに対する基本的なことを教えてくれます。

 

分かりやすい権威ある啓示

聖書はすべての領域について語っています。このように言う時、それは聖書が考えられるすべての事がらについて語っているというのではありません。聖書はある領域のことに限定されていないという意味です。たとえば、聖書は天国と死後の世界についてだけのものではありません。事実、それに関しては聖書はあまり語っていないのです。また聖書は「霊的」なことだけに関するものでもありません。お金、性、農業、財産、政治、動物、などとても地に足をつけた事がらについてもたくさん書かれています。すなわち聖書は単なる「霊的」書物ではないということです。このことは神がご自身の司法権によって、私たちが人生のすべての分野を治めたいと願っておられるという信仰へと導きます。神は私たちの人生のすべての領域の主なのです。これは神はご自身の司法権によって私たちを束縛しておられるという意味ではありません。もし子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由なのです(ヨハネ8:36)。しかし、神の権威は聖書を学んだり、祈ったりするという「霊的な」ことに限られているのではないのです。キリストがすべての主ならば、キリストは教育、環境、軍事、政治、経済、すべてのことにおいても主なのです。

 ある人たちは「キリストがクリスチャンの主であるというのは事実だけれど、クリスチャンでない人たちの主ではない」と言うかもしれません。でも聖書は「地とそれに満ちるものは主のものである」(1コリント10:26、28)と言います。救われていない人々も被造物として神に属するのです(詩篇16:4)。

 他の人たちは「それはそうかもしれないが、教育、仕事、テクノロジー、政治は世俗的な事がらで宗教的なことではない」と言うかもしれません。しかし、キリストがすべての主ならば、地は神のものならば、聖書がすべてのことについて語っているならば、すべては宗教的な事がらなのです。事実、聖書は教育、テクノロジー、音楽、芸術、政治、医学、健康などについて多くを語っています。ちょうど神の律法が家庭、教会、祈り、聖書研究を支配しているように、このようなすべての領域をも支配しているのです。すべての具体的な問題に具体的に答えを与えているというのではありませんが、すべての一般的な問題に対して答えを与えてくれます。このように、聖書は人生のすべての問題の答えを与えてくれるのです。それゆえ、聖書は人生のすべての領域を支配するのです。

 それでは3つの簡単な例をあげましょう。

 欧米において犯罪は大きな問題です。過去のどのような政治形態においてよりも現代の民主主義における犯罪は大きな問題となっています。現代の民主主義は刑務所制度を施行しています。民主主義は個人の自由を礼拝しているので、犯罪者に負わせる最も厳しく、納得のいく刑罰は自由を奪うことだと考えます。このような犯罪と刑罰に関する考えは神のみことばではなく、人間を中心とした考えを土台としています。

 聖書にはこのような考えはありません。聖書的な刑罰の概念は律法(law)を土台としています。国家は応報の刑(retributive justice ) を課します。これは損害賠償は罪の償いの中心的な手段だということです。損害を与えた人に賠償するということです。国家に対する犯罪はありません。個人に対する犯罪があるだけです。もし盗んだのならば、少なくとも4倍にして償うべきです(出エジプト22:1)。故意に損害を与えたならば、自分自身のものをもって支払うか、等価の償いをすべきです(出エジプト21:25)。偽証をしたならば、偽証によって課された罰を偽証した人に課すべきです(申命記19:16〜21)。殺人を犯したなら、自分のいのちを失わなければなりません。それはいのちを与える神に対する賠償なのです(創世記9:5〜6)。聖書がどのように犯罪に対して答えを与えているかお分かりいただいたでしょうか。

 政治においても同じです。すべての政治はキリスト教的であるべきです。これは政治の仕事が人々をクリスチャンにするということではありません。家庭と教会が人々をクリスチャンにするように働くべきです。しかし、政治は聖書を土台とすべきですし、最終的な決断は聖書に現わされた神の啓示であるべきです。なぜ殺人、レイプ、窃盗が間違ったことなのでしょうか?なぜこのようなことを有罪とすべきなのでしょうか?それは聖書がそうしているからです。私たちは人が法律をどのように考えるかに信頼しません。それが大統領の意見であり、法律の専門家や大衆の大多数の考えであったとしても。私たちはみことばの中で神が何と言っておられるのかに信頼を置かなければなりません。国家が持つことのできる最も偉大な法典は聖書です(出エジプト21:1)。

 最後に、経済に関してはいかがでしょうか?聖書は人は盗んではならないと言います。人は自由市場において自由に取引きができると言います(マタイ25:14〜30)。これは聖書が基本的に、私たちが自由市場と呼ぶものを認めているということです。私たちは貧しい人、老人の世話をし、福祉、教育、芸術などのことを考えるべきですが、これは個人や個人的な団体がすべきであって、国の仕事ではありません。神に従い、盗みをしない国家、国民に重税を課さない国家は物質的な祝福を神からいただくのです。地上の最も裕福な国々を見るならば、このことにおいて神の律法に従っていることが分かります。彼らがどれほど悪しき人々であっても、富みを得、蓄えることを期待するなら、自由市場の神の法則に従います。もしこれらの国々が神に背を向けたならば、神は裁かれます(悔い改めるまで私自身の国(アメリカ)にも起こるでしょう)。問題は自由市場ではありません。みことばは正しく得たものを所有できると語ります。お互いが自由に取引きをすることもできます。このことによって短期間のうちに大きな富みを得ることができるのです。しかし、もし国がこの富を消費しようと考えるならば、国を滅ぼしてしまうことになります。私たちは神のことがを改良することはできないのです。

 以上は聖書が現代の生活を支配しなければならないということを示す3つの領域だけのことでした。さらに多くのことが語れるでしょう。事実、聖書の支配を受けない領域などこにもないからです。

結論

 私と一緒にこの旅行を出発してくださるならば、私と一緒に辿り着くでしょうというコメントで始めました。みなさんがそうしてくださったのなら、同意してくださるに違いありません。キリストが天においても地においてもすべての主であるなら、聖書が人間に与えられた無謬の神のみことばならば、また聖書がすべての生活の領域について語っているなら、神のみことばとして聖書はすべての領域を支配しなければなりません。私たちは聖書を家庭、教会、思想、国家、政治、教育、芸術、医学、ビジネス、経済、テクノロジー、薬学、健康、軍事、未来というすべての領域を支配するものとして見なければならないのです。

 聖書のすべては生活(人生)のすべてのためなのです。

 

 

P.アンドリュー・サンドリン:カルケドンのExecutive Vice Presidentであり、カルケドン・レポートとカルケドン出版のチーフ・エディターである。

(この翻訳は、谷口明法師のご好意により転載させていただいたものです。----富井)

 

 

 




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