クリスチャンは代替案を示す責任がある
ゲイリー・ノースが、よくYou can beat something with nothing.(何かを否定したいなら、代案が必要である。)と言う。
それに代わる意見を持っていないで、ただ、No!としか言わないならば、それは単なる不平屋なのだ。
たとえヒューマニズムの政治、経済、文化などについて批判しても、代替案がなければまともなことはできない。
かつての社会党が次第に国民から相手にされなくなったのは、単なる不平屋だからである。政権を取る心構えが見られなかったし、そもそも、それなりの現実的な意見を持っていなかったからである。消費税反対!と言っても、それではどんな代替案があるのか、国民には見えてこなかった。
さて、日本においても、戦後の社会主義の経済政策が破綻しつつあるが、それでは、どのような経済がこれから有効なのか、クリスチャンは明確な意見を持っていなければならない。
「そんなのはこの世のことでしょ?クリスチャンは天国の国民ですから関係ない。」というのが、今までのキリスト教である。
これは、マルキオン主義の異端の考え方である。マルキオン主義は、現実の世界を、霊的な世界よりも劣ったものとみるギリシヤ二元論の考え方である。宗教改革は、聖俗二元論を撤廃した。カルヴァンは、ジュネーブのあらゆる部分を改革しようとした。キリストの支配は、霊肉あらゆる領域に及ぶべきであると考えた。
しかし、しばらくしてアルミニウスが再びマルキオン主義を教会の中に持ち込んだため、プロテスタント教会にも聖俗二元論、霊肉二元論が侵入し、それは、ジョン・ウェスレーによって大衆化された。
ヒューマニズムによって破壊された世界を回復するためには、クリスチャンが代替案を持っていなければならない。単なる個人的な信仰の事柄で留まっているならば、ヒューマニズムの廃墟を前にただ茫然と立ち尽くすしかない。
「この世のことは関係ありません」といくら叫んでも、クリスチャンもやはりこの世に生きている。ヒューマニズムの教育から子どもが影響を受けないわけにはいかない。政治や経済にまったく関わらないわけにはいかない。
近代の世界は、宗教改革の遺産に負うところが大きい。近代の資本主義の社会、立憲主義、民主主義、近代科学など、とくにカルヴァン主義の影響が大である。
キリスト教は、かつてのように、現実を変革する働きに携わるべきである。そして、ヒューマニズムによって破綻しつつあるこの世界に、何が正しい方法であるかを示す責任がある。