安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない

 

<Q>

毎回ありがとうございます。前回のご返答から一部を抜粋させていただきました。

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「あなたの隣人の血の傍らにむなしく立ってはならない。」(レビ記19:16)タルムードは、この個所から、「危険にさらされている隣人を救い出せ」という戒めを導き出しています。他国において、ひどい人権侵害がある場合、国際社会は、それを傍観してはならないという原則はここから導き出せると思います。共産主義化を放置することは、聖書的とは言えないでしょう。共産化の恐れがある場所に援助をして、国を防衛しようとする政府を助け、場合によっては、軍事介入することは間違いではないでしょう。

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レビ記の聖句に基づいて、クリスチャンは他国において重大な人権侵害がある場合に軍事介入することができると言えます。しかし、例えばナチのユダヤ人虐殺や他国侵略を食い止めるために戦争をした場合、ナチに洗脳された哀れな若い兵士や少年兵をも殺さなければならなくなります。その時、ナチの支配下に置かれた兵士の血をクリスチャンの手によって流さなければならなくなります。このような事態はどのような戦争にもあり、完全に正義を貫いた戦争と言うものは歴史上存在しないように思います。

このようにファシズムや共産主義の非人道主義と戦う場合、その支配下にある兵士を殺したために流された血について、クリスチャンが罪を負わずにすむようにする聖句は存在するのでしょうか?

<A>

戦争の戦闘状態における兵士の殺害は罪ではありません。

「ナチに洗脳された哀れな若い兵士や少年兵」だけではなく、戦争においては、何も知らない赤ちゃんや幼児など、非戦闘員も殺害される危険があります。もしこのようなすべての例を見ていけば、戦争はまったくできなくなってしまいます。

もちろん、非戦闘員が抵抗する術をもたないのにもかかわらず無差別爆撃や原爆などのように皆殺しのようなことをすべきではありません。

しかし、戦闘の最中に流れ弾や爆撃に巻き込まれて死亡する場合があります。

それらのすべてについて考慮するならば、何もできなくなってしまい、そのままユダヤ人が虐殺されるのを傍観する以外にはなくなってしまいます。こうなると、正義とは絵空事になってしまいます。

近代戦争は、国家単位での約束事の上に起こります。戦争は、国際紛争を解決する合法的手段であり、戦争を否定する個所は聖書にはありません。もちろん、すべての戦争をなくすることが理想ではありますが、しかし、この世界に罪があり、人々がキリストを主として受け入れないという現実がある以上は、戦争をなくすることは不可能でしょう。

例えば、共産主義の革命は、既存の合法的秩序を攻撃してそれを武力によって転覆することですから、違法な行為です。そのような共産革命を放置するならば、我々は、直接の話し合いや代表制議会政治によって民意の確認をとりながら合法的に政権を交代するという(近代国家の大部分が認めている)手続きを無視してもよいと認めることになります。しかし、聖書は、「王を尊べ」と述べていますし、ダビデの廃位を求めてクーデターを起こしたアブシャロムを非難しています。サウル王は非常に悪い王でしたが、ダビデはけっしてサウルを殺したりクーデターで政権を取ろうとしませんでした。彼は、サウルのことを「神に立てられた人」として最後まで恐れていました。

テロやクーデターは、神が立てた権威に対する敵対であり、それゆえに我々は認めることができません。

もしある国においてそのような革命が起こりそうであることが明らかであり、その国の合法的な政権が助けを求めてきた場合に、当然援助すべきでしょう。その場合、当然軍事介入が必要になることもあるでしょう。

このような軍事介入において、共産主義側に対して攻撃が行われたときに、当然その国の中にいる「共産主義であろうがなかろうが関係ない」幼児や少年兵などが戦闘の巻き添えになる恐れが充分にあります。

しかし、これは、どうしても避けることができないものです。

例えば、人体は常に病気の脅威にさらされています。この世界から有害な菌やウイルスがまったくないならばいいのでしょうが、現実はそうではありません。その場合、手術したり治療する必要があるわけですが、その際に、治療する対象ではない健康な部位も傷つけてしまうことがあります。例えば、ガンの放射線治療によって様々な健康な部分が傷つくように。

これは、治療において避けることができない必要悪です。できるだけそのようなことのないように副作用のない薬を開発したりする必要があるのですが、しかし、「健康な部位も傷つくから治療をすべてやめるべきだ」ということにはなりません。

聖書において、戦争において無辜の市民が傷つくことを容認する個所としては、イエスが述べた「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」という律法の大原則があると思います。

つまり、律法とは、神の下にあって、人や社会が祝福され、繁栄するために与えられたものです。規則に縛り付けるために与えられたものではありません。人間や社会全体のトータルな益を目指して与えられているものですから、小さな規則に字義的拘泥をしているパリサイ人らが「安息日に病人を癒すことは許されない。」と述べたことにイエスは抗議されたのです。

戦争における犠牲者についても、犠牲者だけに注目して、それに異様に拘り、すべての攻撃を止めるべきだ、というようなことを主張するならば、戦争を全く行うことができなくなり、それゆえ、正義の闘いもできないということになってしまいます。

全体の利益と個々のケースを比較して、どちらが優先されるべきかを総合的に評価し、有意味な理解をしていかないと、ヒトラーなどの悪魔的な抑圧政治や侵略を許してしまい、さらに多くの人々を犠牲にしてしまいかねません。

チェンバレンの宥和政策によって、チェコの人々やポーランドの人々がヒトラーの刃のもとで死んでいきました。当時、絶対平和を説いた平和主義者のせいで、ナチスによる戦火は拡大し、バルト3国はスターリンに占領されてしまったのです。

ドイツの幼児や少年兵、洗脳された人々のことを心配することも必要でしょうが、さらに巨視的に見て、ヨーロッパ全体、世界全体について心配するならば、彼らの犠牲を承知の上で、ナチスに対抗する必要があったと思います。事実、チャーチルの非妥協的決断によって、米国が戦争に加わり、連合軍はナチスに勝利することができました。それによって、連合国やアウシュビッツのユダヤ人だけではなく、ナチスに洗脳されていた人々もその呪縛から救い出される結果になりました。

 

 

02/01/26

 

 

 

 




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