禁欲という名の傲慢
友人の教会では、十字架にかかったイエスを講壇にかかげている。
そして、牧師は、「我々の目標は、十字架のイエスのように、完全な犠牲を捧げること、つまり、殉教である。」と言う。
ロシア正教も、「苦しみを通しての人格の陶冶こそ、クリスチャンの目標である」と教える。
しかし、カルヴァン派のキリスト教は、「十字架が目標ではなく、復活である」と考える。
「苦しみが最終目的ではなく、苦しみを越えて得られる勝利こそ、クリスチャンの目指すところである。」と。
苦しみを目標や基準とするのは、ギリシャの禁欲主義の影響を受けているからである。
十字架のイエスを見上げるのは、苦しみを模範とするためではなく、自分の贖いが彼において達成されたからである。
真の信仰は、苦しみの先にある勝利に注目する。
イエス御自身が「勝利に目をとめ、十字架の苦難を乗り越えられた」と聖書は述べている。
禁欲主義は、人間が神になろうとする野心から生じる。
人間は、神になろうとしてはならない。それが、放縦によるのであれ、または、禁欲によるのであれ、人間の置かれた正しい立場を忘れて、神になろうとするのは、究極の野心である。
暴走族は、暴力によって神になろうとしている。
ルールを無視して、道路を走りまわるのは、暴力を通じて全能者の気分を味わいたいからである。
逆に、禁欲者たちは、自分の欲望を否定することによって神になろうとしている。
神が、食べてもよい、飲んでもよいと言われたものにまで、自分で制限を設けてそれを禁じるのは、神の善悪の基準を撤廃して、自分でそれを設定しようとする野心である。
オカルト団体や、異端の群れほど、禁欲に走るのは、この全能者になろうとする野心からなのだ。
酒、コーヒー、コカコーラ、豚肉、牛肉、性欲を満足させるためのセックス、輸血、…。
こういった聖書が禁じてもいないものを禁じる宗教の究極の願望とは、「自らが善悪の決定者になる」というサタン的な野望である。
神が世界に与えられたもので、悪いものは一つもない。感謝して受けるときに、我々の益になると聖書は述べている。
ピューリタン思想にも禁欲主義は混入している。
あるピューリタンの一派は、トマトを食べることを禁じた。トマトは、人の欲情をかきたてるから、と。
あるピューリタンの指導者は、オナラをすることにも罪悪感を感じていた。
キリスト教は、コンスタンチヌス帝以来、ユダヤ人の手から完全に離れて、ギリシャ・ローマ文化を経由して世界に広まった。その過程において、ギリシャ禁欲思想を濃厚に反映することになった。
ローマカトリックの信仰は、実質的に「ギリシャ思想キリスト派」のようなものであった。
人間は、神が定めた基準にしたがって、善悪を区別しなければならない。どんなに人間の目に尊いと思えることでも、聖書において規定されていなければ、それを規則として社会や個人の信仰に適用することはできない。
聖書において啓示されている神の基準から逸れたものを社会や自分に押し付ける態度は、すべて傲慢であって、断固として糾弾されなければならない。
参考文献:R. J. Rushdoony, Flight from the Humanity, Ross House Book.