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唯物論者は独断論者ではない?

 

>tomiさんの書き込みを読んで、深刻な疑問が湧き上がってきました。

>それが、キリスト教の立場なのでしょうか?キリスト教は不可知論

>なのでしょうか?それはともかく、あなたの「懐疑論」は哲学にお

>いて繰り返し議論されてきた事ですので、新しさはありません。

 

 キリスト教は、「人間から出発する知識には限界がある」という点において不可知論ですが、「人間から出発しないで神の啓示に頼るならば人間の能力を超えた事柄についても知ることができる」という点において不可知論ではありません。

 

 近代哲学は、「人間だけを認識の出発点とする」という前提において論を展開していくものですが、その場合、懐疑論の指摘によって深刻な限界が生じることがわかりました。

 

 しかし、キリスト教は「神から認識を開始する」という前提を立てるので、このような不可知論には陥らないのです。

 

 不可知ということについて、「形而上的本体的世界の認識の可能性」という問題に絞ってお話しましょう。

 

 人間は閉じられ鍵をかけられ密閉された部屋(現象の世界)の中に住む住人であるとしましょう。

 部屋の外(本体・霊・死後などの世界)のことについてはわかりません。

 懐疑論は、部屋の外のことについて知ることは一切できないとしますが、キリスト教は、部屋の外のことについては、部屋の外に行くことができる人(全知の神)に聞くことによって知ることができる、とします。

 

 カント以降の哲学は、部屋の中も外もすべて部屋の中の住人のために存在するのであるから、部屋の中から類推し判断したものだけが真実である、と結論します。

 

 この意味において、唯物論を含む近代哲学はすべて、「勝手な類推と判断」による「独断論」なのです。

 

 それゆえ、唯物論が、キリスト教を「独断論」呼ばわりして自分を正当化することはできないのです。

 

 人間は、部屋の外について「科学的証明」をすることは不可能なのですから、クリスチャンであれ、唯物論者であれ、「独断論者」ではないものは一人もいません。

 

 クリスチャンとそうでない人の違いは、「部屋の外に出たことがある者から情報を得て判断しよう」とするか、それとも、「部屋の外に出たことがないがあれこれと推測して判断しよう」とするかの違いだけです。(*)(**)

 

 

(*)「部屋の外に出たことがある者がいるかどうか分からないではないか。」とノンクリスチャンは指摘するでしょうが、クリスチャンは「部屋の外に出たことがある者がいる」という前提を立てています。その前提の真偽について誰も証明できないのですから、こちらが間違っていると断定することはできないのです。

 

(**)「部屋の外に出たことがないがあれこれと推測して判断し、その結論を真理としよう」という近代哲学の立場は、「判断する正当な立場にない者が『だけど、俺は判断できるんだ。』と言い張るごり押し宗教」であり、不可知論に立つ厳密な実証主義者(つまり、部屋の外については認識できないのであるから、それについて判断することを完全にあきらめようとする立場)以外、この「新しい宗教」から一歩も外に出ていません。

  フォイエルバッハは「ヘーゲルにおいて完成された近代哲学は、キリスト教の焼き直しであり、合理化(人間化)された神学にほかならない」と看破しました。しかし、「すべてのことは部屋の中において起こっているのであって、部屋の外は存在しない」という無根拠の断定を下しているので、彼の立場も「独断論」にほかなりません。真の「非神学」は、「部屋の外があるかないかは分からない」と「判断を留保する立場」です。同じように、唯物論者も、「判断を留保する立場」に立たない以上、「神学者」であることに変わりはありません。

 

 

 

 




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