霊と肉のバランスを!

 

<ご質問>

><ご質問>

>

>悪人が刑罰に処せられているかどうかは自治権とは個別に考えるべきだと個人的に

>は思います。なぜなら、悪政や独裁政治が行われている国において極端に厳しいと

>いうケースが多いからです。曲がりなりにも神の法に従っている国のほうがむしろ

>刑罰が軽いといえるように思います。

>

><お答え>

>

>質問の意味がよくわかりません。詳しく説明していただけますか。

富井さんが以前、「神の法が不完全ながらでも守られており、強盗や殺人者、悪人が罰せられ、秩序が保たれている場合、その体制を倒すために活動すべきではない」とお書きになられました。すなわち、「刑法によって悪人が裁かれている」ということが、自治権が神によってその国に与えられているかどうかの判断基準の一部に入れられていると言うことだと思います。中華人民共和国とアメリカ合衆国を比較した場合、米国のほうが比較的中国よりも神の法に従っていると言えます。しかし、刑法の厳しさから言うと、中国の方がより厳しいものになっているかと思います。この場合、独裁政治の中国のほうが刑罰と言う観点からすると神の法により従おうとしている米国よりも徹底しているかもしれません。だから、神によって自治権が国家に与えられるかどうかは刑法がきちんと機能しているかどうかと関係がない。そういうことをいいたかったのですが、刑法の公平さを考慮すると、自分の言っていることは筋が通っていないかもしれませんね。

 

<お答え>

聖書によれば、教会が「恵みの務め」に召されているのに対して、国家は「義の務め」に召されています。「義の務め」とは、パウロによれば、「剣」の権威です。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」(ローマ133

国家は、「悪を行なう人には怒りをもって報い」るために立てられた「神のしもべ」です。悪に対する刑罰を厳正に行うかどうかは、国家の健全さを示す主要なバロメーターです。

中国は、たしかに汚職に対しても死刑を下しますが、聖書の規準を捨てているため、過重な刑罰になっています。汚職者を処刑せよとは聖書のどこにも示されていません。

刑罰が厳しいかどうかが重要なことなのではなく、聖書に従って処罰しているかどうか、が重要なのです。この点を誤解のないよう御願いします。

 

<ご質問>

今回もひとつだけ質問があります。

使徒パウロは、クリスチャンの戦いは肉によるのではなく霊によるものだと言いました。これに対して、サタンがクリスチャンの戦いは霊によるのではなく肉によるものだと言うふうに人間を誘惑することはあるのでしょうか?またそういうケースがあるとすれば、それは聖書のどこの部分に基づいているのでしょうか?

 

<お答え>

クリスチャンの闘いは、霊的な闘いですが、それは、「問題の本質は霊にあるということを認めているかどうか」にかかっています。

つまり、中国の抑圧的な体制に対して、クリスチャンは、単に「政治を変えればよいのだ」とは考えません。その背後にある、サタンが中国人に吹き込んだ偽りの思想を問題にします。中華人民共和国は、人間だけで成立する世界を築くことを目標にするヒューマニズムによってできた国です。人間だけで幸せになろうとするのは、バベルの塔の事件から分かるように、神が忌み嫌われることです。

ヒューマニズムは、霊の世界をのぞいて考えるので、霊的な解決を得ることはできません。今日の精神的な疾患も、霊の次元で考えることができないため、精神科の御医者さんは病気を治せなくて苦労しています。

共産主義にしても、世俗民主主義にしても、「思想は霊的問題である」という事実に気づいていません。なんらかの思想があるならば、それが聖書を究極の権威として尊んでいないならば、それは、サタンの惑わしであり、「それ以外ではない」のです。

思想は、人間や社会の中核を形成するものであり、諸制度は、思想を軸として形成されます。キャベツをむいていくと芯がありますが、社会の中心を探っていけばそこには必ず「思想」があります。

我々は、高校の世界史などの授業などで、政治を中心に歴史を学んできましたが、これは本当の歴史教育ではありません。歴史の中心は「思想」です。政治は、その思想の外的現われであり、体制が変化したならば、それは、社会の軸を形成している「思想」が変化したことを示しています。

思想的に堅固な社会は、変化しにくいと言えます。確信をもっている人は、厳しい迫害に耐えることができますが、確信がなければすぐにヘナヘナとなります。

我々の闘いは、思想を巡るものであって、それゆえ、クリスチャンの主要な働きは、伝道によって、人々に信仰を植え付けることにあります。もし伝道がなければ、社会を変えるために選挙運動してもあまり意味がありません。クリスチャンに対して「伝道なんてやめなさい。まず飢えを解決することが大切でしょう?」というような人々は、問題の本質を見誤っています。「新生」がなければ、社会改革は不可能ですし、無意味です。サタンが、「この石をパンに変えなさい。」と述べたのも、同じように、問題を「霊以外」に置こうとする誘惑です。「信仰、信仰なんて言っていないで、まずパンの問題をなんとかしたらどうだ。」とサタンは語りかけてきます。

聖書は、このように、福音を問題の中心としているのですが、それだけではありません。

聖書は、「地を従えよ」という命令を人間の中心的使命としています。ですから、我々は、どちらの極端にも走ってはならないのです。

「霊など問題ではない。まず肉だ。」というのも、「問題は霊にあるのだから、肉には関わるな」というのも、両方ともバランスを欠いており、誤りです。聖書は「救いは行いによらず信仰による。問題の本質は霊の闘いである。」と述べると同時に、「行いのない信仰は死んでいる」とも述べています。

我々の目標は、「聖書に堅く立つ信仰を持ち、それを具体的に世界に適用していくこと」にあります。

 

 

02/02/26

 

 

 

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