聖書を出発点とすること

 

<ご質問>

では今、私が、

「神はこう仰った。これまでの我の言葉は全てそなたらを試す為の物であった。

 そなたらは、合格である。これよりは自らの意志によって生きよ。と」

といったならどうでしょう。

同様に、

「神のお言葉ですから信じましょう。」

「神のみ言葉を信じなければならないのは何故?」

「神が信じろと言っているからです。」

と、できるではありませんか。

これまで書かれたキリスト教の書物と、いかなる違いがありますか?

私が、嘘をついているかどうかは、人間には判断できないでしょう。

これ以外の有効な根拠を示さねば、それこそ「何でもアリ」になってしまいます。

こういうループが起こるのは、何時も自己言及的なときです。

有名な例として「『クレタ人は正直だ』とクレタ人は言った。」

と言う物があります。

この言動からは、クレタ人の如何は判断できません。

自己を根拠にして自己を証明できません。

クレタ人の例を「クレタ人が人間なので絶対的でない」と批判できません。

何故なら、これはクレタ人が「完全」に正直者、または「完全」に嘘吐きである事を前提とした物だからです。

完全であっても、自己を根拠とする理論は、根拠を欠くのと同義です。

 

<お答え>

たしかに、聖書と同じ論法を使えば、どんな人でも自分の言葉を絶対化することはできます。

しかし、「無からの創造者」であり、最高主権者である神が、自分の言葉を信じさせるのにはこれ以外の方法はあり得ないのですから仕方がありません。

もし、神が「何故、殺人が罪だって?それは、この世界に働く自然の掟に反するからだ」というならば、「じゃあその自然の掟というのは神の創造物ではないわけですね」と反論されてしまいます。

神は万物の創造者なのであり、神の前にいかなる世界も存在しなかったのですから、善悪や意味は神にのみ依拠するのです。それらが神以外のものに依拠すると言うならば、神とは別に善悪の基準とか秩序とかが存在していたことになり、「無からの創造」と矛盾します。つまり、神は絶対者ではない、ということになります。

それでは、ある人間が「神は私にこう言われた。」と切り出して、御心なるものを人々に示したとします。その場合、我々は、どんな教えでも受け入れなければならないということになるのか、ということになってしまうのですが、そこには、明確な制限があります。

それは、「聖書に書かれているか」ということです。もし誰かが神のご託宣をしたとしても、それが聖書と矛盾する教えであるならば、受け入れることはできません。

それでは、「聖書はどうして神の言葉である」と主張できるのか、という問題に戻りますが、それは、「聖書が神の御言葉であることは神が人間に示してくださるから」としか言えないのです。

例えば、聖書では「『神はいない』と言う者は愚か者である」と宣言しています。なぜならば、神が存在することは、被造物を見るときに明らかだから。

「いや〜、神が存在するかどうかは私にはわかりません。」と言っても、それは言い訳にならない、と宣言されます。なぜならば、「神が存在することを神御自身がすべての人に直接に啓示するから」なのです。

「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1・19-20)

神に関する知識、聖書が神の御言葉であること、イエスが唯一の救い主であることは、何かの理屈によって証明されることではなく、神が直接に各人に啓示してくださることによって明らかなのです。

もしそれを否定するならば、その人はウソをついているのだ、と言うわけです。

「いや〜、これじゃあ、自己参照であり循環論ではないか。」と言われてしまいますが、繰り返しますが、有限なる人間はあらゆることについて完璧な知識を持つことは不可能なので、循環論による以外知識を得ることは不可能です。

つまり、何かを前提として設定する以外に人間はものを考えることはできません。

例えば、私たちは、「論理的思惟は真理に至る正当な方法である」という前提を何の疑いもなく受け入れています。もしこの前提をも疑わねばならないならば、思惟そのものが不可能になります。

クリスチャンは、「聖書は神の御言葉である」という前提から出発します。

それに対して何故と聞かれても、それは神が明らかにするからとしか答えることができません。

近代人は、帰納法的思惟を過度に強調する傾向がありますが、帰納法的思惟が全能であると証明できないのですから、私たちの知識の前提「聖書を出発点とする」を否定することはできません。

 

 

 

 




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