聖書翻訳について

 

<ご質問>

「正しい本文に基づく翻訳聖書の出版に」に関連して質問します。「リバイバル新聞」の2月25日号に、聖霊派の牧師が中心になって新しく聖書を翻訳しようという事業(「日本聖書出版会」)がスタートしたとの記事が掲載されていました。会長には、奥山実師が選出されたそうですが、新しい聖書の翻訳に関して、主からの強い促しがあったと言われる笹井大庸氏(マルコーシュ・P社長)は、翻訳原則として、@原語に忠実に訳する。A底本は欽定訳以後のものに検討を加えて用いる。B旧約はヘブル語聖書の配列を回復する。C神の御名の回復。(「神」と訳されているエロヒムを、「創主」「天主」「天父」などに訳すべきかに言及。)D美しい日本語の回復を挙げられたようです。また白畑司師は、「聖霊に対する生きた信仰による翻訳」「新しい世代にわかりやすい日本語による翻訳」「より厳密な原語とそのニュアンスを反映した『高品質』翻訳」の必要性を挙げ、「哲学的な思想が反映されない、『霊』を大切にした翻訳を行わねばならないと述べられたようですが、ペンテコステ、カリスマ派教会における一連の動き、及び笹井氏等の翻訳原則を、富井氏はどう評価されますか?また、「前説」、「無説」、「後説」、どの終末観に立つかによって、聖書の翻訳は大きな、あるいは微妙な影響を受けるものでしょうか?

 

<お答え>

「A底本は欽定訳以後のものに検討を加えて用いる。」とありますが、これはどのような意味なのでしょうか。欽定訳は、マジョリティーテキストに基づきますが、現代英訳聖書のほとんどは、アレキサンドリアテキストに基づいています。両者は、5000以上の個所において相違があり、しかも、小さなものではないので、どういった意図があるのか知りたいのですが。

 

「C神の御名の回復。(「神」と訳されているエロヒムを、「創主」「天主」「天父」などに訳すべきかに言及。)」ということですが、神の御名を回復するという意味においては、七十人訳以降「主」と訳されている神の固有名「ヤーウェ」を回復することのほうが重要だと思います。

また、「神」を「天主」などと訳すべきという意見の背景には、日本などの神と混同するからという事情があるのだと思いますが、旧約聖書をギリシャ語訳したり、新約聖書記者が「神」を表す際に、「θεοs」という当時のギリシャの神々と同じ名称をあてたことから、特別に「聖書の神だけは、異教の神と違う訳を当てるべきだ」とは考える必要はないと思います。

つまり、聖書の神は、他の異教の神々とは異なるのだから、「神」ではなく、「天主」などと称するべきだ、というならば、なぜ、新約聖書の記者たちは、ギリシャ語で「神」を表す時に、ギリシャ人の信じていた異教の神々を指していた「θεοs」を用いたのか説明できなければなりません。

神は「神」でいいと思います。

 

また白畑司師の「聖霊に対する生きた信仰による翻訳」とは具体的に何を指すのでしょうか。「聖霊に対する生きた信仰」そのものは間違いではないのですが、聖霊を何か父や御子と独立して働く霊であるかのようにとらえる傾向がカリスマ派にはありますので、ちょっと引っかかります。聖霊はあくまでも父と御子から出るもので、従属の関係にあるのですから、それだけを独立してとらえることにより、聖書と別に預言や奇跡を行ったりすると誤解してしてしまわないように、内容を確認する必要があります。

聖霊は、律法を守れるように信者に対して働かれるのです。律法に矛盾する自由を与えるために与えられたものではなく、「律法遵守における『助け主』」としての聖霊の働きを確認しなければ、最近のカルト化を防ぐことはできないと思われます。

 

「哲学的な思想が反映されない、『霊』を大切にした翻訳を行わねばならない」とありますが、哲学がすべて間違いだとは言えません。世俗哲学だけが間違っているのであって、キリスト教哲学は正統主義神学において確立された地位を持っているのですから、誤解のないようにしないと、無神学、無哲学の翻訳ができてしまいます。

霊と哲学が対立したものであると考えることはできません。

人間は、哲学なしでは生きていけない「哲学的な動物」です。哲学は、諸学を統括する学問であり、世界観を扱う学問です。聖書は明らかに世界観を提供しているのであり、人間は、聖書に基づいて世界を解釈する預言者なのですから、世俗哲学をチェックし、正しい聖書的な哲学を構築しなければなりません。

世俗哲学の危険性から哲学全般を拒否して、ただ「霊的なこと」だけがよいのだとして、神学や哲学を無視した解釈がまかりとおれば、キリスト教はいつまでたっても進歩できません。近代哲学の攻撃に対して正統的な信仰がキリスト教を弁証してきた過程で生まれた哲学や学問的な蓄積を無視することは、反文化的行為です。

どの立場でも、神学や哲学を完全に無視することはできないので、もし、「霊的な翻訳」を行おうとするならば、どうしても、現在流行しているディスペンセーショナリズム的な「神学」や「哲学」に偏った翻訳になってしまうでしょう。

 

「「前説」、「無説」、「後説」、どの終末観に立つかによって、聖書の翻訳は大きな、あるいは微妙な影響を受けるものでしょうか?」ということですが、影響は非常に大きいでしょう。

 

 

 

 




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