聖書は契約の書である

 

 聖書は契約の文書である。

 とくにモーセ五書は、契約的な構造になっている。

 二枚の板は、契約の板と呼ばれ、両者のために一枚ずつ書き記された。現在、我々がアパートなどの賃貸に契約書を1通ずつ受け取るのと同じである。

 イスラエルの民が、契約を破ったときに、モーセが契約の板を割ったのは、単なる怒りのためではなかった。

 当時、近東諸国において、契約が破られた場合には、文字通り、その板を割って無効を宣言した。そして、契約を破った当人は、処刑された。

 だから、モーセが契約の板を破った後で、レビ族が剣を持って集まり契約違反者を次々と殺していった。

 聖書を読む場合には、契約を常に意識しなければならない。

 聖書が契約的文書であるということ、とくに、宗主契約文書の構造(*)をなしているということは、すなわち、聖書が「神が人間に地球の支配を任せた」ということを中心テーマとして記されていることを意味している。

 どの本を読んでもそうであるが、著者が何を中心にその書物を記しているかを知らないと、的外れな読み方になってしまう。聖書は、聖書を記した真の著者である神の御心どおりに読まなければならない。神が、聖書を契約的文書として記されたということが明らかであるならば、我々はその意図に沿って読まねばならない。

 神は人間に「わたしは、おまえを造り、おまえに地球の支配を任せた。だからわたしの意図に沿って支配するように。」とお命じになった以上、この根本的なテーマから逸れた「人間中心的な解釈」をしてはならない。

*)この契約構造については、ウェストミンスター神学校のメレディス・クライン教授の研究が著名である。

 

 




ツイート