カルヴァン主義の5特質

 

 カルヴァン主義の5特質は、とても重要なものですが、現在クリスチャンで知っている人はあまりいません。

 わたしは、大学時代にエドウィン・パーマーの解説書を読みましたが、非常にためになりました。

 5つの特質は、すべて神の主権というテーマに貫かれているように思えます。

 

 人間は、全的に堕落しているということを否定するならば、堕落していない部分で人間は自律的に生活できるのではないか、と考えてしまい、ヒューマニズムの侵入を許してしまいます。

 人間は、あらゆる部分において堕落しており、健全な部分が一つもないということを思想の根底に据えなければ、キリスト教は、単なるヒューマニズムの一派になってしまいます。

 

 人間の体の中で病気にかからない部分はないのと同じように、あらゆる部分が病んでいます。ローマ・カトリックは、ギリシヤ思想の影響によって、理性だけは病んでいないと言いましたが、カルヴァンは、理性そのものが堕落しており、人間は、自分の理性によっては神を受け入れることはできないと主張しました。

 

 これは、当時の人間回復運動(ルネサンス)の潮流に逆らう主張であり、それゆえ、カルヴァン主義はカトリックやヒューマニストから攻撃されたのですが、もしこの主張を撤回してしまうならば、アルミニウス主義のように、「人間は自分の力で救いを受け入れることができる」と主張することになり、「神人協力説」というペラギウスの異端に陥ってしまいます。

 

 アルミニウス主義は、たとえて言えば、「人間とは、溺れかかって助けを求めている人間であり、浮き輪を差し出してあげればそれにつかまって助かることができる存在である」と主張します。しかし、カルヴァン主義は、「人間とは、助けを求めることすらできない死人である」と主張します。エドウィン・パーマーは人間を「サメに心臓を食われてしまって、死に絶え、海底10,000メートルに沈んで身動きひとつできず、まして、助けを求めることすらできなくなった者」にたとえました。

 

 それゆえ、人間が救われるのは、純粋に奇跡の御業であるとカルヴァン主義は主張します。

 

 人間が救われるのは、ただひたすらに神の恵み、神の選びによるのだ、と。生まれながらの人間は救われたいという思いすら持つことはできません。「十字架の言葉は滅びる人々にとっては愚か」なのです。ですから、人間が救われるには、神が人間を復活させて、助けを求めさせるところまで心を回復しなければなりません。私たちが神を信じることができたのは、私たちが立派だからとか、知恵があったからではありません。ただ神が私たちを選んで、自分が罪人であることを気づかせてくださり、救いを求めるように心を回復してくださったからにほかならないのです。

 

 それゆえ、カルヴァン主義者は、けっして救いを功績とは捉えません。カルヴァン主義者は、ただひたすらに神の恵みに感謝するだけです。

 

 しかし、アルミニウス主義者は、神が私を救ってくださったのは、私が罪人であることに気づき、積極的に救いをいただこうと求めたからだ、と主張します。それゆえ、アルミニウス主義者は、「人間は行いによって救われるのではない」と主張する一方で、「信仰」を自分の功績にしているのです。

 

 神は、人間が誇り高ぶることのないように、救いに関することについては、人間の自己推薦を一切許さない方法を取られました。

 人間は、慈善事業をしたから救われるのでも、殉教したから救われるのでもありません。人のためにいのちを捨てても、救いの条件には入りません。

 なぜならば、人間が善行を行うときに、そこには必ず傲慢がつきまとうからです。慢心や利己心から自由になれる人はいません。

 

 神は、人間に徹底して謙遜になることを求めておられるので、神からの一方的な選びによる以外の方法を取られなかったのです。

 

 もし人間が自分で救いを受け取る力があるということになれば、人間は必ず、「私が救いを求めたから救われたのだ。もし、私が救われたいと思わなければ、神も救うことはできなかっただろう。」という冒涜の言葉を吐くでしょう。

 

 人間は、あまりにも堕落しており、何を行っても常に誇り高ぶる傾向があるため、とくに救いに関しては、神は人間の側に功績を一切与えなかったのです。

 

 

 

 

 




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