鎖につながれた敵との戦い
聖書におけるキリストの勝利の過程は、「原理的・永遠的」→「実際的・時間的」です。
十字架における贖いは原理的に完全であり、我々の贖いはすでに「完了」しているのですが、実際にその実が結ぶのは徐々にです。キリストは復活して王になりましたが、歴史においてクリスチャンがその王権を実現する過程は徐々にです。
法的な状態と、実際的な状態を混同すると、現在クリスチャンは完全に罪を犯さなくなったと述べてしまい、偽善者になってしまいます。
神は、原理的・永遠的な勝利をすでに達成してくださいましたが、それですべて完成だ、ということは言えません。人間が歴史の中で徐々にその原理的な勝利を実際化しなければならないのです。
なぜならば、神は、霊的な世界の現実を、物質的な世界において表現させるために人間を創造されたからです。
神は、時間を創造され、時間を超越しておられますが、人間は時間の中で働くように定められています。あくまでも時間と空間は、人間の業のために備えられた舞台であって、神は、そのような舞台に縛られているわけではありません。
だから、神の創造は、超時間・超空間的なのです。自存の神に時間や空間が必要なわけはありません。
進化による創造が非聖書的であるのは、この神の「超時間性・超空間性」と矛盾するからです。神が6日で創造されたというのは、神も時間に束縛されていたからではなく、人間の模範となるためでした。
人間は、神の権力執行者として、地上を神の御国と変えることを委ねられています。
創造は一言葉によって完成され、それはパーフェクトなものでしたが、それで終わりということではなく、人間を通して、神の御性質と栄光を、この時間と空間の枠組みの中において徐々に実現させようとなさいました。
創世記の創造の記事には、
神=超越者=超歴史的=時空を超越して御業を完成
人間=非超越者=歴史的=時空の枠組みの中における漸進的な業を遂行
という聖書全体を貫く原理が暗示されています。神と人間との間には、質的な相違があります。無限者と有限者との間には、不連続性があります。これは、ヴァン・ティルが繰り返して主張した原理です。
この「無限なる神」と「有限なる人間」の不連続の構造は、キリストの勝利にも適用できます。
キリストは、サタンに対して一回限りの御業によって勝利を達成されました。サタンは、原理的に完全に敗北しました。サタンとの戦いは原理的に終焉しました。しかし、それによってサタンとの戦いの全体が終焉したのではなく、このキリストの完全な勝利を、人間は、歴史において徐々に時空の世界の中で現実化しなければなりません。
神の創造世界の完成は、神の一回限りの超時空的(超歴史的)御業と、人間の時空的(歴史的)業から成り立つのです。
勝利は、神の側における原理的勝利だけではなく、人間の側における実際的勝利を通して完成されるのです。
それゆえ、プレ・ミレやア・ミレのように、人間の時空的勝利の確実性を否定するならば、そもそも人間が何故作られたのかという、人間創造の目的を否定することになります。
神がやろうと思えば、歴史内においてサタンを瞬時に完全に滅ぼすことなどわけはありません。キリストの力によって、一瞬にして、サタンの頭は踏み砕かれ、永遠の祝福の世界はすぐに到来するでしょう。しかし、それは、神の方法ではありません。神は、人間を通して、時空の世界の枠組みの中で、サタンの頭を踏み砕こうとされたのです。それが歴史の意味なのです。宣教師が苦労してジャングルの中に入って福音を伝えなくても、雲に乗ったキリストが直接未開の部族のところにやってきて、御自身を現し、天から聖霊を下して一挙に回心に導くことは可能でしょう。しかし、それは、神の栄光を表す方法ではありません。人間の労苦と葛藤と努力に、聖霊の力づけが加わって、サタンの抵抗の中に、徐々に福音が世界に広がることが神の方法なのです。このような人間の労苦の中に御国が拡大されることがなければ、人間が創造されたもともとの意味はなくなってしまいます。
それゆえ、黙示録20章1-3節において、サタンは完全に縛られ、封じ込められたと言われているのには、二重の意味があると言えるのです。すなわち、(1)「超時空的(超歴史的)・原理的法的にはサタンは完全に縛られ、封じ込められた」ということ。そして、(2)「時空的(歴史的)・実際的にはサタンは限定的に縛られ、封じ込められた」ということ。
現在のサタンの抵抗は、戦争において、戦争終結宣言が出された後で、敗戦国の残党が山にこもって絶望的な戦いをしているのと似ています。
我々は今、掃討作戦を遂行しているのです。世界はキリストの御業によって、法的に神の国に変わりました。キリストは、神の右の座につき、天地における一切の権威を所有しています。しかし、実際の世界においては、まだサタンの軍隊の残党は抵抗しています。
イスラエルには、「おまえたちにカナンの地を与える」という宣言が神から下されていました。これは、原理的にカナンはイスラエルの土地になったことを意味しています。しかし、神は、それからご自分が下っていってカナンを制圧されたのではなく、「だから、行って、カナンを征服せよ」と命じられました。あくまでも征服する責任はイスラエルに与えられたのです。
カナンの人々は、堕落のゆえにその土地から追い出される運命にありました。彼らはイスラエル人と比べて体格もよく、武術にすぐれていましたが、彼らは神の宣告を受けて、縛られ、力を奪われたので、イスラエルの攻撃に耐えられなかったのです。
これと同じように、サタンは神から宣告を受けて、その本来の力を奪われています。彼らは縛られて、封じ込められています。
クリスチャンは、自由に動き回れるサタンと戦うのではありません。神によって首や手足に鎖をつけられ、牢獄に縛りつけられているサタンと戦うのです。
それゆえ、クリスチャンが彼らに立ち向かうときに、彼らは逃げ出すのです。我々が勝利することは、戦う前から明らかです。鎖に縛り付けられた敵と戦って負けるわけがありません。
黙示録20章はこのようなサタンの姿を示しているのです。