子供の文化と大人の文化
アメリカのクリスチャン学生のキャンプに参加して驚いたことの一つは、男子学生には、筋肉隆々のマッチョマンが多いということです。
彼らは、閑があれば、ジムに通ってトレーニングをします。
みんなどうしたら腹をへこまし、胸板を厚くすることができるか心配しています。
グループのリーダーにはハンサムや美人が選ばれ、対外的なパーティでは、歌のうまい人が賛美の奉仕をするのではなく、顔かたちのよい女性が選ばれます。
このような傾向は、学生だけではなく、社会全般に広がっているようです。大統領選挙では、候補者はテレビに映るイメージをひどく気にします。
個性豊かで自立した人々が多いと思っていたアメリカがこのように子供っぽい文化になっていることにいささか戸惑いを覚えたのはわたしだけではなかったようです。
自分が他者に受け入れられているかどうかを心配する文化は、子供の文化です。
大人は、自分が他者を受け入れているかどうかを心配します。
受け入れられるかどうか、愛されるかどうかを心配するのは、他者の反応に一喜一憂する依存心の強い人間の特徴です。
大人は、他者に受け入れられるかどうかを心配するのではなく、どのようにすれば他者を幸せにできるかについて心配します。
子供は他者によって生命や将来が左右されるので、どうしても依存的にならざるをえません。
しかし、大人になって独立したら、自分で自分の世話をするだけではなく、他者の世話もしなければならないので、自分が受け入れられるかどうかについて心配しません。
外面について異常にこだわる文化は、受動的な文化であり、異教の文化です。
キリスト教は、「受けるより与えるほうが幸いである。」という原則を重んずる能動的な文化を作ります。
教会に行かないで、テレビや映画ばかり見ていると、与えることよりも受けることを愛だと誤解する人々が増えるのです。
(しかし、訪問したほとんどの教会の礼拝が、ラスベガスのショーのようで、見せることを異様に強調しているのが気になりました。)