循環論にも差がある
クリスチャンもノンクリスチャンも循環論者である。
有限な人間は、だれでも循環論者にならざるを得ない。
「神はこのように言われたので正しい。」と断定する人に向かって、「神が存在するかどうかわからないのに、神の意見が正しいということで断定を下すとは不合理だ。」と言う人は、「神が存在するかどうかわからないのに、存在しないという前提で知識を求める行為は不合理だ。」と逆にクリスチャンから批判されることになる。
神は存在するという前提に立つか、神は存在しないとう前提に立つか二つに一つしかないのであるから、いずれにしても人間は循環論者にならざるを得ない。
「いや〜、進化論はけっして神は存在しないという前提には立っていない。神の存在については保留の態度を取るのが科学者だ。」という人がいるかもしれないが、「神はいるかどうかわからないが、生物は神の創造によるのではない。」ということを言っているのであるから、「創造神を否定している」。
創造神を否定するということは、キリスト教を否定することなのだ。なぜならば、キリスト教は神の創造に基礎を置いて成り立つ世界観だからである。
宇宙の隅々まで見ることができ、霊の世界を知り尽くした人間などいるはずもないのだから、神の不在も、創造の不在も証明することなどだれにもできない。
このように有限な知しか持つことのできない人間はみな循環論者にならざるを得ないので、「創造科学は循環論だから擬似科学」、「我々は循環論ではないから科学」という単細胞の独り言は言えなくなることがこれでお分かりだろうか。
さて、すべて循環論であるならば、それでは、どちらが正当な意見であるか判別もできないということになるかというとそうではない。
なぜならば、循環論の基礎において、クリスチャンとノンクリスチャンとは大きな差があるからである。
「尊師の説法は正しい。なぜならば、尊師がそのように述べたのだから。」とか、「現代生物学の学界では進化論は確立された定説であるから進化論は正しい。」 という議論がクッダラナイというのは、「尊師は全知者なのか」「生物学の学界は全能か?」という短い質問をするだけではっきりする。
全知でもない人間が、循環論の基礎にならないというのは小学生でも分かる理屈である。
キリスト教は「全知の神は存在する。全知の神はこのように言われた。だからこれは正しい。」という循環論である。
キリスト教の循環論の基礎は、「全知の神」なのだ。
「わたしは無知だが、わたしは権威になれる。だからわたしに従いなさい。」というのは、ガソリンや油が漏れている飛行機を見せて「どうぞお乗り下さい。」と言っているようなものだ。
もし、客に搭乗を勧めるなら、まともな飛行機を見せることだ。
人間は全知ではないと自覚しているなら、人間を権威にすえて循環論をぶつなどという愚行を控えるべきではないか。