キリストはクリスチャンの業の完成者として再臨される
今日誤解されていることではあるが、キリストは、クリスチャンの業の完成者として再臨される。
多くの人々が、キリストは、クリスチャンが失敗した仕事を代わりにやってくれるために再臨されると考えている。
彼らはこう言う。「世界を変えるなど不可能だ。世界の現実を見るときに、そんな楽天主義を信じることはできない。サタンの文化はこれからクリスチャンを飲み込み、全世界を征服するだろう。しかし、再臨のキリストはサタンの意図を覆され、その後千年間地上を支配されるだろう。」と。
しかし、聖書の多くの個所は、それとは逆のことを述べている。
キリストはサタンが征服されるまで天にとどまっていると繰り返し述べられている。
「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」(へブル1・13)
「主は私の主に言われた。『わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』」(マタイ22・44)
現在キリストは、神の右の座に座っておられる。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来るよにおいてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1・20−21)
父なる神が、万物を征服して、キリストの足の下に置くまで、キリストは父なる神の右の座に座っておられる。
「このイエスは、…あの万物の回復の時まで天にとどまっていなければならない。」(使徒3・21)
この個所を直訳すると、「天は、イエスを保持していなければならない(must receive)」となる。
つまり、「天は、イエスを自分の外に出してはならない」。
万物が征服され、神の所有となり、すべての秩序が回復するまで、イエスは再臨されないで、神の右の座に着いて「いなければならない」。
さて、父なる神は、どのようにして万物を征服されるのであろうか。
クリスチャンを通じてである。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)
旧約聖書においては、イスラエルが神の戦いを戦った。
新約聖書においては、クリスチャンが神のために戦う。
クリスチャンは、キリストの主権と臨在によって、世の勢力と戦う。伝道と教育によって、徐々に世界はキリストの下にひれ伏すようになるだろう。そして、世界のすべての国民がキリストの弟子となり、神の法に従うときに、世界は回復する。
クリスチャンの戦いは、武力によるものではなく、御言葉によるものだ。パウロは、クリスチャンの剣とは、御言葉であると述べている。
「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6・17)
御言葉の宣教と、御言葉のあらゆる領域への適用こそが、世界征服の唯一の方法である。
民族、国民が、聖書の言葉に基づいて法律を改変し、あらゆる活動の基準として受け入れ、それを守り行うならば、その民族、国民は神の秩序の中に回復した。
それゆえ、我々は、全世界の国民に対して、神の律法に基づいてあらゆる事柄を運営するように導かねばならない。クリスチャンが、御言葉をあらゆる領域、あらゆる地域に適用することに成功するならば、世界は神のもとに回帰する。
あらゆることがらが神の御許に回帰するときに、はじめて、キリストは、神の右の座を離れて、我々のもとにやってこられる。
そして、最後の敵を滅ぼして、御国を完成され、それを父なる神に献上されるのである(1コリ15・24)。
これは、将軍であるお方として相応しい行動である。
ひとつひとつの戦いは、普通の兵隊が戦うが、最後の締めは、最高司令官が行う。マッカーサーは具体的な戦闘には参加しなかったが、日本占領のシンボルとして、厚木の飛行場に降り立った。
キリストは再臨されて、歴史の中でクリスチャンが制圧したすべての権威、権力を、父なる神におささげする。将軍が、国王のために戦い、征服した土地やものを国王に献上するのと同じである。