自己満足じゃ話しにならない
<ご質問>
ルターが「たとえ明日終末がやってきても今日りんごの木を植える」というように、多くのプレ・ミレやア・ミレの人々も福音宣教に頑張っており、終末について無関心でもきちんとやっているのですから、問題はないのではないでしょうか。
<お答え>
大いに問題があります。
なぜならば、
(1)そのような姿勢は不信仰であるだけではなく自己満足だからです。
キリストが「すべての国民を弟子とせよ。」と言い、「わたしには天地において一切の権威が与えられているからできる」と言われているのに、「できるかどうかはわからない」と言うのですから。キリスト御自身が、長期的な展望を見せてくださっているのに、短期的なものでもよい、ということは明らかな御言葉無視です。そして、そのような御言葉無視の頑張りというのは、自分勝手な献身であり、一番大切な主の御心を中心としていないので、的外れなのです。
(2)その他の人々をリードすることは不可能だからです。
例えば、ある会社の社長が、「うちの会社は来月倒産するかもしれない」と宣言した場合、それからも相変わらず会社のために日々熱心に仕事を続ける立派な人もいるでしょうが、大多数の人々は、早急に次の仕事を探します。
熱心に仕事を続ける人々は、自分の誠実な姿勢に自己陶酔するかもしれませんが、それは、その人個人の内面の問題であって、集団全体の問題を視野には入れていません。
集団をリードして行くには、「うちの会社は今大変だ。しかし、今しばらく辛抱すれば、必ず業績は好転する。だから頑張ろう」といわねばならないのです。
プレ・ミレのクリスチャンがいかに個人的にキリストに忠誠を尽くして、「明日、再臨が来ても、今日私は福音を伝え、神の国のために働く」と言ったとしても、それはその個人の内面の話しであって、「明日再臨が来る」と宣言することによって、他の人々がどのような影響があるかということを気にかけていないのですから、それは半面において、つまり、キリストの体全体に関して、無責任だということになるのです。
クリスチャンは、常に神の視点からものを見なければならないので、個人的な信仰だけではなく、神の御国全体について考えなければならない。そのために、自分は何をしなければならないのか、という考え方をしなければならないのです。
そういった場合、「終末がもうすぐ来る」という説を唱えることが、キリスト教会全体にどのような影響を与えるかに関心を払うのは当然のことなのです。
「いや〜、そんなことまで考える必要はないんじゃないですか。先のことは考えず、日々伝道に励む。これだけでいいと思いますよ。」というならば、もう話す余地はありません。
御言葉にはっきりと指摘されていることを無視するのですから、そのような理性至上主義者や、御言葉に無関心な自己満足クリスチャンと会話しても利益はありませんので。