近代哲学の陰謀
これまでキリスト教において、ほとんど教えられてこなかったのは、近代哲学の陰謀である。
近代哲学の本質は、反キリストである。キリストを世界の王座から追い出して、人間だけで成り立つ世界を造ろうとしたのが近代哲学なのだ。
近代哲学の基本の枠組みは、カントによって編み出された。
彼は、「叡智界」と「現象界」を分け、「叡智界」について人間は科学によっては認識できないので、人間の確実な知識を「現象界」に限定しようとした。
つまり、平たく言えば、「天国や霊のことは科学では分からないから、それらは宗教者にまかせて、我々は、地上のことについて考えよう」ということだ。
科学によって証明できるような確実な知識は、地上の世界についてのことだけだ。霊の世界があるかないかはわからない。神がいるかどうかもわからない。倫理についてもそうだ。もし倫理について考えることができるとしても、それは、人間にとって有益かどうか、という点に絞られる。つまり、人間にとって無意味な教えは拒否し、人間にとって意味あることだけを受け入れよう。そうだ。叡智界の事柄は人間にとって意味のある限りにおいて、有効であるとしよう、と。
これこそ、近代哲学の人間中心教の本質である。すべての価値が人間を中心に回っている。
地上世界から神は追い出された。神は宗教の世界の話であり、現実の世界について首をつっこむことは許されない。キリスト教は、政治や経済について語ることを許されない。地上のことは、人間にまかせてくれ。神は人間が呼び出すときにだけ役立つ存在だ。
カントは、神の支配する領域と人間の支配する領域を分けたので、一見すると、神にも支配権が一部与えられたように見える。しかし、彼の人間中心教は、神の領域までも侵食した。つまり、「神が有益であるのは、人間が必要とした場合だけである」と宣言することによって、彼は神の首をちょん切ったのだ。
ヘーゲルは、この人間中心教に基づいて世界観を作った。人間だけで成り立つ人間王国の土台を据えたのだ。
このヘーゲル主義に基づいて、マルクス主義、進化論、世界連邦主義が生まれた。
20世紀はヘーゲル主義による世界再編の時代だった。革命、内乱、戦争、キリスト教倫理の崩壊、相対主義によって、世界においてキリスト教の影響はきわめて小さくなった。外面的にはキリスト教の名を名乗りながら、今日のキリスト教は、実質的に人間中心主義なのだ。神の啓示に基づいて、世界を定義するのではなく、人間の主観によってあらゆる事柄を定義しようとするサタンの弟子たちに惑わされて、クリスチャンまでもが、世界を叡智界と現象界に分けて、現象界について発言することを控えている。
カント、ヘーゲルがキリスト教に与えた影響の一つは、リベラル神学である。リベラル神学において、認識の出発点は人間理性である。万物の定義は、聖書啓示によるのではなく、人間の主観に基づくとされる。だから、人間理性によって、「これは常識では考えられない」とされる処女降誕や復活、奇跡などは切り捨てられる。これは、信仰を根底から覆す思想である。信仰によって聖書の教えを受け入れるというのではなく、人間の常識によって受け入れられるものと受け入れられないものとを区別してしまうので、キリスト教から超自然を完全に排除してしまった。
また、もう一つは、ディスペンセーショナリズムである。ディスペンセーショナリズムは、時代時代において神は統治原理を変え、教会時代においては、律法は通用しないので、律法の中で命じられている「現象界」についての教えをすべて拒否する。
そのため、今日の聖書信仰の教会は、現象の世界の事柄について語ることをやめ、ただ「霊的な事柄」だけが教会の扱うべきものであるとしている。
しかし、これは、キリストを世界の王座から引き摺り下ろすことであり、それゆえ背信である。キリストは、万物の王なのだ。だから、地上世界はすべてキリストによって征服されなければならない。
現代の教会は、このような近代哲学の陰謀を見ぬかねばならない。このような陰謀について教えている神学校や教会はほとんどない。真のリバイバルは、キリストを天においても地においても一切の権威をもつ者として礼拝することから始まる。真の礼拝とは、聖書
66巻の啓示全体をあらゆる領域における最終権威として尊重することである。クリスチャンは、世界を聖書に基づいて再編する仕事に着手しなければならない。
01/11/29