ヒューマニズムの宿命論から解放されるには
神が契約を結ばれたのは、人間とだけではない。
神は、人間と契約を結ぶ前に、太陽及び月・星と契約を結ばれている。
ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた(創世記1・14−18)。
聖書契約の形式は中近東古代国家の宗主契約または支配契約の形式と類似していることが近年明らかになっている。中近東古代国家の宗主契約の形式には、必ず「委任」の項目が含まれており、主権者が、属国の支配を誰に委ねるか(つまり、ヒエラルキー)が明示されている。
創世記1・28で、人間には地の支配が委ねられた。そして、このことをホセアは契約と呼んでいる(ホセア6・7)。同様に、太陽には昼を支配させ、月星には夜を支配させた、と記されている。
第一日目に光が創造され、すでに昼と夜の区別が行われていた。太陽や天体は、第三日目に創造され、このすでに存在していた昼と夜をそれぞれ支配するように命じられた。つまり、太陽があるから昼夜があるとは考えられていない。太陽は、すでに存在していた光と闇の交替によって作られていた昼と夜を支配するために特別に選び出され、任された権力代行者なのだ。
これは、人間と同じである。まず動植物が作られ、舞台は整えられている。そこに、人間が特別に選ばれて、それらを任される。
このように、創世記の創造の記述は、聖書契約の形式に従っている。これは、太陽も天体も人間も、主権者なる神の権力代行者であり、自律的存在ではないという事実を明確にするためなのだ。
さて、ヒューマニズムの世界観によれば、自然は、超越者の介入を一切拒否する「自律的・自存的世界」であり、閉じられた系である。この世界の中において働いているのは、唯一、自然の法則だけであり、その法則を超越して働く神の力など一切存在しない。
ヒューマニズムにおいて、「法則」とは「決定論的概念」であり、この世界に存在するあらゆるものは、自然法則からけっして自由になれず、その定められた道を進む以外にはない。例えば、生物の世界においては、進化論の自然淘汰、適者生存の法則から逃れることはできない。弱者は滅びる以外にはなく、強者は生き残る以外にはない。どんなに人間が福祉を強調しても、社会的弱者が淘汰されるのは不可避であり、社会的強者が生存するのは必然である。
このように、ヒューマニズムにおいては、神が主権者ではなく、それゆえ、自然法則は自律的存在になるので、それは、人間をがんじがらめに縛り付け、自由を奪う拘束衣でしかなくなってしまう。
しかし、キリスト教においては、自然法則は、けっして人間を縛り付けるものではない。なぜならば、自然法則そのものは、神が自然と結んだ契約において定められた規則でしかなく、それ自体が神と無関係に自律的に存在しているものではないからである。つまり、自然法則は、神のしもべであるから、時と場合によっては、神がそれらに働くのを止めさせて、直に対象に働きかけられることがある。例えば、ヨシュアが祈ったときに、地球の自転が止まった。また、ヨルダン川が堰きとめられてイスラエル人は自由に川を渡ることができた。
ヒューマニズムは、神の首を切り落としたために、決定論、宿命論に堕してしまった。この宿命論の罠から逃れることができた思想は一つもない。ヒューマニズムは、神から自由になろうとして、かえって自然法則の奴隷になってしまった。
しかし、もしキリスト教に立ち帰るならば、自由への希望がある。なぜならば、人間は、神において、自然法則の拘束から解放されるからである。自然法則を創造された神に依存するときに、人間は、自然法則を越えたことを行うことができる。ペテロは、水の上を歩くことができた。しかし、波を見たときに恐れが出て、ぶくぶくと沈んでしまった。人間は信仰によって、宿命論から脱出して、超自然的な力を獲得することができる。
「自由」対「自然(=宿命)」の対立は、近代ヒューマニズムの根底に横たわる最も基本的なジレンマである。そして、それはこれまで解決されてこなかった。聖書的創造論だけが、これを解決することができる。もし人間が神を創造者、超越者として認めるならば、人間は、宿命論に陥らずにすむ。