万人は創造論を信じなければならない
>>御存知のように、クリスチャンは、現代の科学者が
>>そろえて何かを述べたとしても、「ああ、そうか。それじゃあ、信じよう。」な
>>どとは考えないのです。
>科学者もまた、クリスチャンが
100,000人集まって、声をそろえて何かを述べた>としても、「ああ、そうか。それじゃあ、科学を棄却しよう。」などとは考えない
>ですね。クリスチャンが科学者のやっていることは間違っているというのなら、
>それこそ、聖書を抜きにしてどう間違っているのかを科学者に説明できないとい
>けない、というのと同じことですね。
大変大きな誤解をされています。
クリスチャンは、何もかにも聖書を抜きにして、すなわち、相手の土俵(実証主義的認識論)に立って説明する義務はありません。それは、神様もそのようなことをなさっていないからです。
神様は、人に対して「ヤーウェ以外の神を神としてはならない。偶像を拝んではならない。御名をみだりに唱えてはならない。安息日を聖とせよ。すべての仕事をせよ。父母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。むさぼってはならない。」といわれます。これは、宣言または命令であって、相手に納得させるために言ったのではありません。
聖書に明らかに反する科学的理論と呼ばれるものをクリスチャンは信じてはならないし、それを間違いであると宣言しなければなりません。そして、人間は、みな、聖書に従わないあらゆる考えを断固として退ける義務があります。「科学者に分かるように説明できなければ、クリスチャンは相手に義務を果たしていない」ということはないのです。
「あなたはこの実を取って食べてはならない。」との命令を、それが科学的・実証的に証明されなければ従う必要はないと考えることができないのと同じです。
「天地は神が創造されたものだ。」と聖書が述べているのですから、科学者は、全員、絶対に「創造」を信じ<なければならない>のです。
「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物によって知られ、はっきりと見とめられるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。とうのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ1・19−21)
つまり、「人間は、全員、真の神について知っている。それは、神が明らかにされたのだ。つまり、被造物を見れば、神が存在すること、そして、神の本性、永遠の力、神性がはっきりとわかる。それは、被造物がそのために造られているからだ。」ということです。
「神や聖書については、科学的に証明されていない以上信じるに値しないことであるから信じない。」というのは言い訳にはならない。
被造物は、神を証言する動かしえぬ証拠だと、パウロはここで述べている。
神は、被造物を、人間の前につき出して、「ほら、これが証拠だ。信じられないとは言わせないぞ。」と言っておられるのです。
だから、クリスチャンだけではなく、すべての人間は、理屈ぬきに「創造論者」にならねばならないのです