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科学の限界と進化論

 

 

>聖書が神の言葉だと言う根拠はあるのでしょうか。

 

>>「頭を取り去れ!」というのは、カルトの親分が、自分のサギ行為を隠し、

>>信者を盲信の網の中にとどまらせるために使う常套文句である

 

>という事ですので、神の存在や聖書が神の言葉であることも証明してい

>ただけるものと思います。

 

 科学は、人間の認識が可能であるのはごく限られた領域についてであると考えています。霊の世界が存在するか否か、神がいるかいないか、地球から500億光年さきの天体の地下500kmに何があるかなど、人間の認識の及ばない領域について誰も認識することも証明することもできません。

 

 神の不在や聖書が神の言葉ではないということを証明することは誰もできません。

 

 ですから、「神の存在や聖書が神の言葉であることを証明することができないのであれば、『頭を取り去れ!』という立場と変わらないではないか。」というならば、「そういうあなたも神の不在や聖書が神の言葉でないことを証明することができないのであるから『頭を取り去れ!』という立場と変わらないではないか。」と反撃されてしまいます。

 

 「科学によって証明されたもののみを信じる」という立場だけが「非盲信」であるという前提を立てるならば、あらゆる人は「盲信者」なのです。

人間は有限な存在であり、ごく限られた領域のことしか知ることができません。

 もし厳密な科学的手法を求めるならば、現在自分が手にしているコップを手放してそれが下に落ちることを証明することすら科学にはできません。

 

 だれも「次の瞬間に万有引力がコップに作用することを予測する」ことはできないからです。「下に落ちる」ということを予測できるのは、「コップを手放すと下に落ちるものだ」という経験によって「無根拠の憶測」をしているからに過ぎません。

 

 「いつでもどこにおいてもどのような場合においても引力が一様に働く」というのは「斎一説」なる「信仰」であって、事実ではないのです。

 

 次の瞬間に天使や霊がそれを差し止めるかもしれません。

 

 「いや〜、天使とか霊とかがいると証明できないじゃないか。」というかもしれませんが、「じゃあ、天使や霊が存在しないと証明できるのか。」と訊かれてしまいます。

 

 このような「懐疑論」の批判に対して、科学は有効な回答を与えることができません。

 

 それゆえ、現在では、「反証がない限りそれを真理と認めよう。」という折衷案によって科学は「とりあえず」真理を知るための手段として採用されているのです。

 

 科学的論証があらゆることを知るための唯一の手段であると考えるのは大きな錯覚というべきでしょう。

 

 

>それと、あなた方は古生物学や遺伝学を学ばれた事があるのでしょうか。

>「進化は熱力学第二法則に反する」と生物学者に言ってみてください。

 

 進化は熱力学第二法則に反するということはできません。

 熱力学第二法則は、外部からのエネルギーのやりとりが行われない孤立系においてのみ成立する法則だからです。

 しかし、もし進化が正しいとするならば、開放系である地球において、無秩序から秩序を生み出すために注入された負のエントロピーが一体何であったのか説明しなければなりません。

 

 進化論は偶然によって進化が進んだとするわけですが、偶然は負のエントロピーにはなりません。

 

 画像データに偶然の操作を無限に加えても有意な形は生まれません。

 デタラメにデータを改変しても、そこに例えば富士山の絵が生まれることはありません。

 

 太陽光線や、熱やガスなどの諸要素をデタラメに合わせて、そこから有意な物質が生まれ、その物質が生命にまで発展する可能性は限りなく0に近いものになります。

 

 進化論は、偶然以外のいかなる要素が原始の地球に加えられたのか、納得行く説明をしなければならないのです。

 

 




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