科学の限界と進化論2
>>
進化論は、偶然以外のいかなる要素が原始の地球に加えられたのか、>>
納得行く説明をしなければならないのです。>
えっと、これは、プリコジンという人が理論化して、ノーベル化学賞を>
もらいました。>http://www.icsd2.tj.chiba-u.ac.jp/mame/SKEP_FAQ/skeptic.html
>http://www.icsd2.tj.chiba-u.ac.jp/mame/SKEP_FAQ/skep_5.html#5.6
>(
引用開始)イリヤ・プリコジン (Ilya Prigogine) は (ノーベル賞を受賞した)>
非平衡熱力学の研究を行い、平衡からとてもかけはなれた熱力学系は彼が>
「散逸構造」と呼ぶもので自発的に秩序を作り出すことを、示した。散逸>
構造は「局所的な」秩序の増加と全体のエントロピーの素早い増加を交換>
する。組合わせのむやみやたらでありそうもない気まぐれではなく、熱力>
学の自然なまったく必然的な結果として、生命は正確にこの意味で散逸構>
造とみなすことができる。(引用終了)
申し訳ございませんが、興味があるので教えていただきたいのですが、
「散逸構造」がどのようなものであり、どのようなプロセスでそれが熱力学の第二法則に反して秩序を増加するのでしょうか。
>
それと、tomiさんの主張は哲学的にも奇妙です。>
科学が認識できる世界は狭いとおっしゃいますが、少なくとも観測や理論に立>
脚している分だけ信仰よりましです。「科学的論証があらゆることを知るため>
の唯一の手段であると考えるのは大きな錯覚というべきでしょう。」とおっし>
ゃるなら、科学よりもましな、あるいは科学と同じくらい価値のある手段を提>
案していただきたいものです。
科学と信仰とを対立概念としてとらえることはできません。
科学は、不可避的に信仰によって成立しています。
論証的な認識だけで直感的な認識をすべて排除して成立する科学などありません。
今日科学と呼ばれているものは、「論証的認識論を尊重して成立する信仰の体系」であって、「論証的認識論だけで成立するもの」ではないのです。
ある分野の真理を科学は論証によって知ることができますが、別の分野において論証によって知った科学的真理と結び付けて世界観を築くときに、どうしても直感的認識論を採用せざるをえません。そして、この直感によって認識されたものを純粋に論証的に証明することはできません。つまり、そこには「常識」が介在せざるをえないのです。
また、宗教は、どのようなものも観測や理論に立脚せずに成立するということもできません。クリスチャンが、観測や理論に立脚せずにすべて「信仰」だけでやっていこうというならば、そのように言えるでしょうが、実際、近代の実証主義的な科学はプロテスタンティズムから始まったように、キリスト教と実証的科学とを対立するものととらえることはできません。
>tomi
さんは日常生活において、コップを落したら地上に落下するという常識をお持>
ちではないのでしょうか?われわれ常識人は、地球重力に支配されている世界では、>
他の力が働かない限り、コップは地上に落下する事を知っており、そのような現象>
を起す力の働きも、物理の教科書で知ることができます。
このような常識を肯定してしまうと、「科学は信仰によらずに成立する純粋に論証的な認識のシステムである」という立場はくずれます。それゆえ、科学対信仰という図式もくずれます。
つまり、陳さんの立場も、「論証と直感とを組み合わせた信仰の体系」であるということを認めたことになり、こちらと同じ立場であるということになってしまって、有効な批判とはなりません。