科学の限界と進化論3
私たちは「証明できないこと」に取り囲まれています。
そして、今日の学校教育や諸教育では、このような「証明できること」と「証明できないこと」の区別を教えないために、科学によって何でも証明できるかのような錯覚をもって私たちは暮らしています。
厳密に言えば、イギリス経験論や懐疑主義のように厳しい認識論批判をするならば、「人間は、何一つ証明できないのだ。」という結論を出さざるをえなくなります。(*)
現代の科学は、このような懐疑論の批判にたいして、原理的に正当な解答を与えておりません。
(*)例えば、私たちがある対象を見て、それについて思考した気になっていても、「本当にあなたは対象について思考しているのか。」と懐疑主義者に尋ねられると、言葉がありません。
つまり、私たちが、例えば、コンピュータを見てそれについて考えているとしても、実際にはそのコンピュータそのものについて考えているのではなく、光がコンピュータに反射してそれが自分の目の網膜に映った像(これを懐疑論者は「印象」と呼びます)について考えているに過ぎない。
網膜に映った像について考えていることがはたして対象そのものについて考えたことになるのか、誰も証明することはできません。
それゆえ、「網膜に映った像について考えたことは、対象そのものについて考えたことになるとしよう」という約束の上にしか科学は成立できません。