男性はどのようにして生まれたのか?
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ご質問>水掛け論のご意見に私も同感です。やはり、未だ決定的な証拠がないですから。今回は、もうどなたか質問されているかもしれませんが、聖書の記述に関しての疑問です。
聖書では「神はアダム(男)の“肋骨”から女性を生み出した」と記述し、「男から女性が生まれる」という“定義”を示唆しています。
しかし、その記述は「人間は発生の段階では元々、『女性』形であり、(遺伝子や受容器官に以上がない限り)男性ホルモンを浴びることで初めて男性に“分化”できる」という、否定しようのない“事実”から乖離しているように見受けられます。それに、X染色体ばかりの「超女性(XXXX)」や「ターナー症候群(X
O)」は存在しますが、Y染色体だけの「超男性(YYYY)」は存在しません。XXYやXXYYのように、必ずX染色体が含まれます。X染色体にのみ「生存に必要な情報」が存在するからです。@男性を男性たらしめている「Y染色体(聖書は肋骨を示唆?)」が単体では根本的に役にたたず、A女性形から“分化”してはじめて男性が誕生する2つの“事実”は、「肋骨(男性)から女性を生み出した」という聖書の記述を否定するには十分だと感じられます。
「最初は神がアダム(男性)から女性を創った。その後の、生殖して増加していく段階では女性から男性がつくられて行くように神がデザインした」というなら別です。
しかし、「神」がそんな非合理的で無駄ことをすると思われないのですが。 「聖書の記述ははそんなことを示唆、定義していない」と言われればそれまでですが、聖書の記述を“事実”に当てはめてどうお考えなのか、お聞かせください。創造論に対する富井さんの理論は、「聖書に絶対間違いがない」ことが大前提になっていると思います。もし、聖書の記述に間違いや矛盾があれば、創造論そのものを支える根拠が消えてしまうはずです。その場合の聖書と創造論に対する考えも教えていただきたいです。
今回も低次元な質問ですが、よろしくお願いします。
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お答え>@男性を男性たらしめている「Y染色体(聖書は肋骨を示唆?)」が単体では根本的に役にたたず、A女性形から“分化”してはじめて男性が誕生する2つの“事実”は、「肋骨(男性)から女性を生み出した」という聖書の記述を否定するには十分だと感じられます。
「その染色体が派生的なので、男性が最初に作られたはずはない。だから聖書の記述は間違いだ。」というご主張が正しいのであれば、聖書の無数の個所が誤謬であるということになります。なぜならば、神の奇跡は、そのような「派生物を、派生の過程を経ないで出現させる」からです。例えば、イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水がぶどう酒になるには、通常はぶどうの木が水分を根などから吸収して、実を作り、人間がそれを摘みとってつぶし樽に寝かせて発酵させるという過程を経なければなりません。神は、そのような時間と自然的作用と労力とをすべて省いて、派生物を直に創造できるのです。
「イエスは処女マリアから生まれたという。処女から生まれたということは男性からの遺伝がなかったわけだから、XX染色体をもっていたのだろう。」という人がいますが、これも神を無からの創造者として見ることに失敗しているのです。創造者は、最初からXY染色体をもつ者を造ることができるのです。これは不合理なことではありません。なぜならば、『合理的』という言葉は、『宇宙の中において起こることは、自然法則に従うべきであり、自然法則に従わない出来事は一切存在しない。』という、近代合理主義の前提(つまり信仰)から出ているからです。
聖書は、「自然法則は、神の被造物であり、しもべである。神御自身は自然法則を超越している。神が自然法則に従わなければならないという道理はない。」と主張しているので、聖書の記述を、合理主義側の基準によって評価することはできないのです。
どんなに合理主義側が、「自然法則によれば、○○は起こり得ない。」と言っても、「神まで自然法則や合理性に従わせることはできない。なぜならば、神は『無から』世界を創造し、法則すらも神の被造物だからだ。」と主張する聖書的キリスト教にとっては無意味です。
これも、「解釈の違い」の問題であり、水掛け論なのです。
そもそも、もし「宇宙は閉じられた系であり、宇宙に起こるすべてのことは自然法則に従わねばならない」という前提が正しければ、「どうして、男性は男性になったのか?」という疑問に答えられなくなります。人間の基本形が女性であり、胎児においてホルモンシャワーを浴びることによって男性になるのであれば、ホルモンシャワーが生じる前の進化の段階では、男性は存在しなかったということになります。ではどうやって人類は生殖していたのか???
「X染色体にのみ「生存に必要な情報」が存在する」のであれば、当然進化においてはX染色体のほうが前にあったと考えられますが、X染色体しかない時代に、人類は男性が存在していなかったわけです。どうやって生殖していたのでしょうか。昔は女性ばかりだったのでしょうか。それとも、染色体は最初からXとYがあったのでしょうか。そして性の分化は最初から存在したのでしょうか。
創造論に対する富井さんの理論は、「聖書に絶対間違いがない」ことが大前提になっていると思います。もし、聖書の記述に間違いや矛盾があれば、創造論そのものを支える根拠が消えてしまうはずです。その場合の聖書と創造論に対する考えも教えていただきたいです。
今の「Y染色体」問題に関する問いかけでは、聖書の記述に誤りがあると証明できません。立っている前提が違うならば、その前提を持ち出して議論はできないのです。いくら「自律的閉鎖的宇宙観に基づく合理主義によれば、男性は派生的である以上、男性から女性が生まれたことなどありえない。」と言っても、我々はその『自律的閉鎖的宇宙観に基づく合理主義』を信じていないのですから、いくらやってもかえるの面にしょんべんです。前提(信仰)の異なる立場を批判するには、相手の前提にいったん立って、内部矛盾を突く以外にはないのです。
例えば、「経験科学によれば、処女が懐胎することはない。」といくら叫んでも、「我々は、経験科学ですべての神の御業を解釈しなければならないとは考えないですよ」と答えられればそれでオシマイです。我々戦後日本人が受けてきた教育は、「自律的閉鎖的宇宙観に基づく合理主義」を絶対としてきましたが、それが正しいかどうかは誰も証明できないのです。そのような証明不能な前提を持ち出して、こちらをいくら叩いても、「それはあなたの考え方でしょ。」で一蹴されます。
「いや、これは近現代人なら普通に持っていた考え方であり、普遍的である。」と言っても、そもそも大多数が何を言おうと、それが真理であるか偽であるかとは無関係です。しかも、「自律的閉鎖的宇宙観に基づく合理主義」は、けっして世界的に普遍的考え方ではなく、それが科学者の世界観として確立されてからまだ1世紀強しか経っていません。もともと近代科学の目的は、プロテスタンティズムの「神が創造された世界の探求」にあったのですから、我々をトンデモ扱いするならば、逆にトンデモ扱いされることになるのです。
02/03/04