クリスチャンにとって死はもはや何の意味もない
イスラエルは、生命の民であった。
だから、死にまつわる事柄を避けるように命じられていた。
例えば、死体に触れるものは汚れるとされた。
良きサマリヤ人のたとえで、祭司やレビ人が傷を負って倒れていた旅人を避けたのはこのためである。もしかして彼が死んでいたならば、汚れを身に帯びて儀礼を執り行うことができなくなるからである。
しかし、キリストが死に勝利されてから、死は力を失っているので、死体に触れることはもはや神の民にとって忌むべきことではない。
ノンクリスチャンの死とクリスチャンの死は、どちらも表面的には変わりがない。しかし、ノンクリスチャンの死は、罪が累積し、実が熟しきったために起こることである。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む。」とあるとおりである。彼らの死は、罪が赦されない範囲に達したために起こる「刑罰」である。
しかし、クリスチャンの死は、新たな生命への脱皮である。
なぜならば、クリスチャンは、罪の刑罰をすべてキリストが身代わりに負ってくださったからである。
もはやクリスチャンを裁いて罪に定める者は誰もいない。それゆえ、肉体の死は刑罰ではなく、祝福である。
キリストは、ユダヤ人に対して、「神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」と言われた。もちろん、イエスの時代に、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに他界していた。それにもかかわらず、イエスが、神を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んだのは、彼らが現在も生きていることを認められたからである。
他界したクリスチャンは、現在「生ける神の民」なのだ。
教会(エクレシア)とは、他界したクリスチャンも含めた神の民の全集団である。
キリストは、聖書で「いのちの君」と呼ばれている。キリストは、生命の根源であられる。
それゆえ、キリストにつながる人間は生命の民なのだ。
クリスチャンにとって死はもはや何の意味もない。