死刑制度の是非
> 私は死刑制度には反対です。なぜなら、人間には、生死を裁く力はないと思うか
> らです。生死を裁く方は神様のみだと思います。なぜ、死刑制度を説かれるので
> しょう。聖書的にも疑問です。聖書的根拠がおありでしたら、教えてください。
> 依然、神学を習っていた牧師さんも死刑制度賛成論者でした。
(1)神は人間に生死を裁く権威を与えておられる
たしかに、人間には生死を裁く力はありません。
しかし、神は人間に生死を裁く権威を与えておられます。
人間が、他者を裁くことができるのは、それが神からの命令だからです。
人間は、自分自身が欠点だらけの者ですから、偉そうに他者を非難することもそれを裁くこともできません。
人間が、他者に刑罰を下すのは、それが神からの命令だからです。
神は秩序ある社会を望んでおられます。
秩序のためには、法が必要であり、法がある以上、刑罰が必要です。
刑罰がなければ、法は無意味です。
交通規則があって、違反の取締りがなければ、道路は違反者のワガママによって混乱します。
人間は、神の正義を地上にあらわす責任があります。だから、自分自身は未熟な者であるにもかかわらず、違反者を裁かねばならないのです。
例えば、この世に完璧な親などいません。子供に「勉強しなさい。」と命令する自分が、勉強が大嫌いで、子供のときに勉強しなかった人は少なくないでしょう。だからと言って、「私はダメな親だ。もう子育てする自信はない。」と言っていれば、誰も子育てなどできなくなります。
神は、両親に子供を授け、子供を教育する権威を与えました。だから、両親は、自分が未熟な者であるにもかかわらず、子供に教育することができるし、また、しなければならないのです。
さて、聖書は、国家には、故意に殺人を犯した者を処刑する権威が与えられていると述べています。
それは、完璧な国家だけに与えられた権威ではなく、どの国家にも与えられている権威です。
その国家が、どのように成熟しているかは問題ではありません。国家は、秩序を維持し、神の正義を地上において実現するために 「神によって」 立てられているものであり、それゆえ、殺人者を処刑する権威があります。
(2)神は人間の生命を尊いものと定義され、それを犯す者を処刑せよと命令しておられる
神はノアに向かって「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。・・・人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9・5−6)と言われました。
人間は、神のレプリカであり、神の似姿として、他の被造物にはない至上の価値が与えられています。
人間の生命は、何にも代えることができない尊いものであり、それゆえ、人間の生命を勝手に奪う罪が、生命以外のものによって償われることはありません。
聖書は、同害刑法の原則「刑罰は罪の軽重に比例しなければならない」に貫かれています。「目には目を。歯には歯を。」は、復讐を教えているのではなく、目を害した者には、目に値する刑罰を加えよ、ということを教えています。
この原則を生命に適用すると、人間の生命には生命をということになります。
殺人罪に対して死刑以外の刑を定めることは、神を軽視することです。
なぜならば、神御自身が、「人間は神に似せて作られたものであるから、血を流すものの血を流せ。」と言われているのですから。
神は今日でも、殺人者に「血の値を要求」されています。
(3)聖書は、死刑制度を肯定している(下記説明は、http://www.path.ne.jp/~millnm/no27.html からの援用です)。
パウロは、「支配者は、あなたに益を与えるための、神のしもべ」であるが、もし我々が悪を行うなら、「恐れなければならない。それは、彼は無意味に剣を帯びていないからだ。」(ローマ13・4)ここで、「剣 macaira」という言葉には、明らかに「死刑」の意味が含まれています。新約聖書において、macaira は支配者による処刑を象徴しています(ローマ8・35、使徒12・2)。「剣を帯びるthn macairas forein」という表現は、悪人を処刑する権威、そして、生と死を司る権威を象徴しています(Thayer's G.E. Lex. of N.T)。
旧約聖書では、死刑に関して、「死に当たる罪」という表現が用いられています(申命記21・22)。パウロが使徒25・11において、多くの罪状を並べ立てられて訴えられた時に、「もし私が悪いことをして、死に当たることをしたのなら、私は死をのがれようとはしない。」と述べて、死刑制度に服従する意思を見せています。
聖書には、死刑制度を非難する箇所はありません。死刑が非難されているのは、理由のない死刑についてだけです。「この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。」(ルカ24・19ー20)バプテスマのヨハネを処刑したことについて、イエスは「彼らは・・・彼に対して好き勝手なことをしたのです。」(マタイ17・12)と述べていますが、「好き勝手なこと」は裁判にも掛けずに私的な制裁をしたことを示しているのであって、死刑自体を指しているのではありません。十字架につけられた強盗は「我々は自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」(ルカ23・41)と述べていますが、ルカは読者に対して、この発言が誤りであるという印象を与えていません。
もし司法制度において死刑が許されないならば、神は旧約聖書においても新約聖書においても、そのことを明示したはずですし、「処刑せよ」との命令は記されていないはずですが、逆に、次のように夥しい数の箇所において死刑は命令されているのです。
民数記35・31 故意の殺人には生命が要求される。
創世記9・5−6、民数記35・16ー21、30ー33、申命記17・6、レビ記24・17。 過失殺人や動物の殺害は贖い金で赦免されたが、故意による人の殺害は赦免されない。
レビ記20・10 既婚者との姦淫。
申命記22・21ー24 未婚者の姦淫。
レビ記20・11、12、14 近親相姦。
出エジプト22・19、レビ記20・15、16 獣姦。
レビ記18・22、20・13 男色
申命記22・25 婚約している処女を犯した場合。
申命記19・16ー20 死罪に関わる事件における法廷偽証罪。
出エジプト21・16 申命記24・7 誘拐。
レビ記21・9 姦淫を犯した祭司の娘。
出エジプト22・18 魔術。
レビ記20・2−5 人身御供。
出エジプト21・15、16、レビ記20・9 父母に対する暴力とのろい。
申命記21・18ー21 悔い改めない頑固な非行者。
レビ記24・11ー14、16、23 冒涜。
申命記13・1ー10 偽って預言する者。
出エジプト22・20 偶像神へ犠牲を捧げること。
申命記17・12 神の律法や合法的制度・法廷に対する故意の頑固な不服従。
申命記13・9、17・7 証人による処刑。
民数記15・35、36、申命記13・9 会衆による処刑。
民数記35・30、申命記17・6、19・15 2人に満たない証人の証言では処刑できない。(*)
(*)
1.これらは、旧約聖書の律法であるから今日無効であるということはできません。
新約聖書において明確に変更されているのでなければ、旧約聖書の律法は新約時代においても有効であるという原則を適用しなければなりません(マタイ5・17−18)。
2.聖書の刑罰は、被害者が決定できるという原則がありますので、被害者が刑の減免を求めた場合、これらの刑がそのまま執行されることはありません(例:身重のマリヤを赦して、離縁しようとしたヨセフ。本来なら、姦淫罪の最高刑は死刑である。)。それゆえ、これらは罪に対する最高刑を規定したものだと考えられています。ただし、殺人については、被害者に発言の機会がないので、最高刑を適用すべきとされています。死につつあったイエスは、自分を十字架につけた人々を赦免しています(ルカ23・34)。