運命の最終決定者

 

 最近の大学生や高校生は、昔の大学生や高校生よりも個性豊かであるという人がいるが、はたしてそうだろうか。

 たしかに、外見では奇抜なかっこうをしたり、独特な行動をする人は多くなった。しかし、考え方ではむしろ横並びの感覚が強くなっているような気がする。

 「友達はそんなことしない。」とか「友達に嫌われたくない」とかいう言葉が口をついて出てくる。

 

 知り合いのカウンセラーに聞くと、最近対人恐怖などで閉じこもりの子どもが増えているそうだ。私も20代の一時期対人恐怖に近いものになったことがあったが、振りかえって見ると、あの当時は自分の基準を喪失していたと気づく。

 

 友達がすべて、家族がすべて、学校がすべて、会社がすべて、社会がすべてになれば、当然彼等から嫌われることは、自分が生きていけないことを意味するので、彼らの気持ちを損なわないように神経をとがらせて生きなければならないだろう。

 

 人と合わせることだけに気を取られるならば、対人恐怖になるのも無理はない。なぜならば、人間は気まぐれだから。絶えずゆれ動く他人の評価を気にして生きると、自分の身がいくつあっても足りない。

 

 ある意味において他人の評価はどうでもよい。

 もちろん、組織に属していれば、そんなことも言っていられないし、自己満足の世界に入るのも不健全だが、しっかりとした信念を持ち、なおかつその信念をできるだけ普遍妥当的なものに保つ努力をしているならば、他人の目など気にする必要はない。

 

 対人恐怖や神経症などの問題は、神への信頼によって解決できる。

 

 聖書の箴言に次のような言葉がある。

 

 「人を恐れると罠に陥る。しかし、主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。」

 

 人間の評価は相対的、一時的である。運命の最終決定者は神である。人間からどんなにチヤホヤされても、神から嫌われたら、その人の人生はオシマイである。

 

「自分の幸不幸を最終的に決定するのは神である。だから、人間から一時的に不興を買っても、正しいと思うことをやり遂げることができれば、神は必ず自分に正しく報いてくださるのだ」と信じることができれば、人の目を恐れる必要はなくなる。

 

 

 

 




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