人間の対話は聖書啓示を超越できる?
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前略,逐語霊感説を採る立場の意義はわかりました。が,それは,人間本意な決>
め方で,神の意志,神の言葉を閉じこめることにはなりませんか?>
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聖書に,血を食べてはならないと書いてあるから「輸血をしてはいけない」と>
か,聖書にこうであるべきと書いてあるから「こうあらねばならない」と説くの>
は,神の意志を人間の統治に都合よく利用しているだけで,神の意思を尊重して>
いません。まず、輸血を禁じているのはものみの塔だけで、キリスト教はそんなことは言っていません。
聖書は、全体として、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」という原則に貫かれています。
それを守ることによって、無実の人間のいのちが台無しになるような律法を神が制定されるはずがないという聖書全体の主張を考慮しながら細部を見ていく必要があるのです。
それから、聖書が逐語霊感されていなければ、神は、聖書を記させたときに、聖書記者のワガママを放置していたということになります。そうなれば、神は聖書をもって、ご自分の御言葉と宣言することはできません。
法律を発布し、国民にそれを守らせようとする為政者が、逐語的に条文をチェックしないわけがありません。その条文の一字一句についていい加減な態度をとる為政者がいるならば、よほどの無能者か勝手気ままな人間です。
法律発布者は、それを元に統治が左右されるような重要な法律を発布する場合、その文章の一字一句について神経を尖らすのは当然のことです。
神が人間に御自身の意志を伝えたとするならば、まず、その意志が、人間の恣意によって曇らされないように、書物の形にまとめるでしょう。書物によって間違い無く伝えられることがなければ、人間は堕落しているので、自分の都合のよいように法律を改変してしまいます。
また、口伝であれば、それがすばやく広範囲に伝わることを期待できません。全世界の民を救うためには、書物にするのがベストでしょう。
さて、書物に書き表すということになれば、その文章の単語一つ一つについて厳密なチェックを入れるのは当然であり、聖霊は、聖書記者の思考をすべて支配されて、その選択する言葉
1つ1つについてコントロールがあったとしなければならないでしょう。為政者が、いい加減に発布した法律について、議会でつっこまれた時に、「ああ、それは、書いた人間のミスで、本当はこういう意味だったんです。」なんて言っていては、お話しになりません。
書物において厳密に定義されていなければ、後で、「このように書いてあるとおりだ。」と宣言することはできません。このようないい加減な法律によって支配されては、国民はたまったものではありません。
法律を信用できなければ、国民の不満は高まります。
同じように、どの組織においても、厳密な定義のされていない言葉を用いる書物によって裁かれれば、人は、いつもビクビクしなければなりません。
気が変われば何をされるかわからない国家に住みたいと思いますか?
聖書がもし、逐語霊感されておらず、聖書を厳密に調べても神の意志が分からないならば、人は、他の権威を求めるようになります。その聖書を間違いなく解釈できる「霊能者」に頼るようになるでしょう。
こんなのシャーマニズムであって、キリスト教ではありません。
逐語霊感を信じることができなければ、キリスト教は、人間を権威とし、宗教家を権威とする依存宗教になるのです。
宗教改革は、「人は、ひとりひとり、直接聖書を読むことによって、神の御心を知ることができる。だから、人間と神との間にキリスト以外の仲保者は存在しない。」として、人間を組織から独立させたのです。
逐語霊感を信じなければ、キリスト教は宗教改革以前の組織崇拝に陥るのです。
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聖書は,勧めの書であり,教えの書です。神の法を教え,それに従うときには祝>
福が伴うことと,的はずれな教えを無視する生き方には,それなりの道しかあり>
ませんよと教え諭してくれているものです。聖書を縦に,自分の考えを権威づけ>
るのこそ,異端の誤りではありませんか?本当の権威は,神が表してくださいま>
す。あらゆる方法で。聖書を盾に自分の教えを権威付けるなんて誰がいいましたか?
聖書を権威とすることによって、自分の教えは権威を失う可能性が高くなるのです。
なぜならば、他の人が聖書を読むことによって、わたしが述べていることをチェックできるからです。
もし、わたしの述べていることは、神の直接の啓示であり、聖書に書かれていないことである、と宗教指導者が言い出して、その組織がそれを容認するようになれば、誰も彼の言うことをチェックできなくなります。
聖書よりも高い権威を主張した人間を裁くことは誰もできなくなります。
しかし、プロテスタントでは、聖書が最高権威であり、どのような高名な宗教家であっても、その教えを絶対化することはできない。その教えは、聖書によってチェックできる。と考えます。
く り か え し ま す が、聖書よりも高い権威ーー人間の霊感とか思想ーーを設定することは異端の始まりです。
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主観といいますが,内的啓示とも考えられます。主観にすぎないのか内的啓示な>
のかは,その後の成り行きとか,言葉の実現とか,真実があるかどうかで判断さ>
れていきませんか?人間関係はすべて,それで成り立っているではありません>
か?一人の意見や,固定された権威にではなく,対話関係の中で合意形成してい>
くのが民主主義ですよね。教会が,教会会議や対話で方向性を模索していくの>
も,神の元の平等と神を唯一の絶対権威と認める故ではありませんか?聖書よりも、人間の対話に最高権威を設定するのは、弁証論というヒューマニズム思想です。対話によって真実が発見できるというのは、ナチズムやマルクシズムを形成したヘーゲル哲学の考え方であって、キリスト教とは無縁です。
人間が互いに討議することによって、より高い真理に到達できるというのは、今日の民主主義の基本原理でもありますが、そんな討議によって達成できる真理などたかが知れています。
それでは、人間が救われるには、聖書が啓示しているキリストの十字架ではなく、人間同士の対話で生まれてくる何かなのでしょうか?
聖書は、「人間の智恵によっては救いを得ることができないというのは、神の智恵なのだ。」と述べています。
人間の対話による救いというのは、人間の傲慢であり、神を不要とする悪魔的な考えです。
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教会が,教会会議や対話で方向性を模索していくの>
も,神の元の平等と神を唯一の絶対権威と認める故ではありませんか?教会が対話によって、討議を進めるべきであるというのは、「聖書の権威を前提として」という但し書きが付くのです。
教会の議論が、もし、聖書を越えてもよいとするならば、それは、聖書的教会ではありません。
聖書的教会ではないというのは、「人間理性崇拝の教会」ということであり、キリスト教とは無縁です。
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(私が,常に言いたい対話関係の中に聖霊が働かれ,神の言葉の臨在が現れると>
いう点です。語る者,聞く者相互の関係の中に聖霊の働きが実現しないと,聖書>
は神の言葉とななりません。紙の教皇とはいい皮肉ではありませんか?また,対>
立の一致のような考え方を持たないと常に善か悪か,黒か白かの発想になってし>
まいます。)聖霊の働きがなければならないということに反対するクリスチャンはいないでしょう。
対話関係の中に聖霊が働かれるということにも反対するクリスチャンはいないでしょう。
あなたの欠けている点は、「その対話関係で働かれる聖霊が、聖書を越え、聖書と矛盾することを主張することがある。」とすることです。
もし、聖書が、厳密に記されたものでなければ、どうやって権威を設定できるのですか?
聖霊は、聖書の真意を解き明かす方であり、その解き明かしによって人間ははじめて真理を悟ります。
しかし、その聖霊が教えられたことが、聖書と矛盾するようなことは絶対にない。
なぜならば、解き明かされた聖霊は、聖書の著者でもあるから。
自分が書いた書物と矛盾するようなことを言う解説者がいれば、首を傾げられてしまいます。
聖霊は繰り返し繰り返し「社会は人間を処刑する権限を与えられている」と聖書の中において述べておられます。
もし、その同じ聖霊が、「処刑は間違いだ。」と言うならば、規則が変わったことが、どこか聖書の中に記されていなければならない。もし、聖書の中に記されていないならば、それを述べた聖霊とは本当に聖霊かどうか疑わねばならない。
「いやいや、聖霊は、聖書に書かれていないこと、聖書と矛盾するようなことも述べることがあるのですよ。」と言われるならば、「じゃあ、いったい聖書って何なの?
聖書が権威であるというのはウソ?誰か『聖霊はこのように述べました。』という預言者が現われれば、我々は、その預言者の言葉をチェックするためのレファレンスは存在しないということになるわけ?」と問われます。