メシアニック・ジューはディスペンセーショナリズムから離れよ

 

ヘーゲルの弁証法的歴史発展説は、キリスト教にも影響を与えた。

それは、ディスペンセーショナリズムである。

ディスペンセーショナリズムは、歴史は、神が試行錯誤しながら人間を試してきた進展の過程であるという。

無垢の時代→良心の時代→人間の統治の時代→契約の時代→律法の時代→恵みの時代→王国の時代と、時代時代において統治原理を変えながら、次から次へと人間を試してきたのだ、という。

ハーザー誌において、アリエル・ローレンス・ブルーメンソールは、次のように述べており、契約神学者とディスペンセーショナリストを混同し、ディスペンセーショナリズムの起源を17,18世紀としているが、まったくの誤解(かもしくは、意図的な謬説流布)である。

「一七世紀から一八世紀にかけてプロテスタントの神学者の中から、神さまは実際にはユダヤ人を処罰しているのではなく、ユダヤの人々には祖国イスラエルを復興するという素晴らしい未来が待ち受けていると教え始めるものが出ました。ローマ十一章などの御言葉を引用して、旧約聖書の契約すべてをクリスチャンの教会に適用するのは間違っていると指摘したのです。これが「ディスペンセーショナリズム」の始まりです。私たちメシアニック・ジューおよびクリスチャンは、このディスペンセーショナリズムの神学者たちに多くを感謝しなければなりません。聖書の重要な真実として、ユダヤの人々は「キリストの教会」に回復しつつあると信じるべきなのです。」

ディスペンセーショナリズムは、あくまでもジョン・ダービーとスコフィールドに始まる19世紀初頭の産物である。17,18世紀において、ユダヤ人の回復を説いたのは、ジョン・オーウェン、サミュエル・リーなどのピューリタンのカルヴァン主義契約神学者であった。このことを誤解してはならない(http://www.path.ne.jp/~millnm/jew.html)。

このような誤解から、奥山氏のような、「改革派神学者やポスト・ミレは、イスラエルの回復に反対した。イスラエルが建国したときに、プレ・ミレはポスト・ミレに勝利したのだ!」などと言うトンデモない意見が出てくるのだ。

イスラエルの回復は、ディスペンセーショナリズムのはるか前から、カルヴァン主義者が唱えていた専売特許である。しかし、ブルーメンソールは、これらカルヴァン主義者をもディスペンセーショナリズムの祖先と述べることによって、ディスペンセーショナリズムを正統化しようとしているのだ。

これは、とても神の言葉に仕える人間とは思えない欺瞞である。

メシアニック・ジューは、ディスペンセーショナリズムから離れなければならないのだ。真に聖書的運動としたいならば、事実を直視して、偽りを排除しなければならない。教理に関して、ロマンチシズムは厳禁だ。厳密な学問的議論と探求を怠ってはならない。

ディスペンセーショナリズムは、ヘーゲルの弁証法的歴史発展説から生まれた偽りの歴史観である。

神は、統治原理を次々と変え試行錯誤しながら、歴史を発展させてこられたお方ではない。聖書には、そのようなことはどこにも述べられていない。

神は、歴史において一貫して人間を恵みによって取り扱っておられるのだ。アブラハムには、恵みと約束による救いを与えたかと思えば、次のモーセの時代には、行いによる救いを与えるよう方針を転換された、というようなことを「不変の神」がするはずがないではないか。

モーセにおいても、神は恵みと約束によって救いを与えておられたのだ。その証拠が、犠牲のいけにえである。人間の身代わりにいけにえの動物を捧げることはキリストの犠牲を象徴している。

ディスペンセーショナリズムは、律法の時代に恵みの原理を適用しない。そのため、彼らは、この時代、モーセは行いによる救いを伝えたのであり、神も行いによって救われるように人間に命令したと唱えるのだ。そして、律法を敵視し、クリスチャンは、もはや律法の時代に生活していないのだから、律法に縛られる必要はない、と無律法主義を主張する。

このような教えはサタンの教えである。

いつまでもいつまでも、正しい批判を回避し、それに答えず、偽りを垂れ流す現代の偽預言者的キリスト教には重たい刑罰が下ることを覚悟しなければならない。

メシアニック・ジューは、こういった偽キリスト教から離れ、縁を切らねばならないのだ。

 

 

01/11/11

 

 

 

 




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