ディスペンセーショナリズムを論駁する
(1)
ディスペンセーショナリズムは、現在の福音派の教会に強い影響を与えている。
ディスペンセーショナリズムとはどのようなものであろうか。ゲルハルダス・ヴォスはこのように述べている。
ディスペンセーショナリズムとは、J・N・ダービーとスコフィールド・レファレンス・バイブルに代表される間違った聖書解釈の体系である。これは、人間の歴史を7つの明確に区別できる期間(ディスペンセーション=契約期)に分割し、それぞれの期間において、神はそれぞれに固有に働く一つの原理によって人間を取り扱われる。(ディスペンセーショナリズムは、イスラエルと教会が霊的に同一のものであることを認めず、「恵み」と「律法」を対立概念、互いに相容れない原理としてとらえる。)
スコフィールド博士は、「ディスペンセーションとは一つの期間のことであり、この期間の中で人間は、神が啓示されたその時代特有specificの御心に対して服従の姿勢を示すかどうかを試される」と述べている。ディスペンセーションは7つあり、それぞれに独特な統治原理が働いている。ディスペンセーションが変われば、統治原理も変わる。あるディスペンセーションにおいて適用された原理は、他のディスペンセーションでは通用せず、ディスペンセーションが移行すれば、神はまったく違った原理で人間を取り扱う。それぞれはそれぞれにおいて完結しており、けっして相互に交じり合ったり混同することはない。
スコフィールドによれば、その7つのディスペンセーションとは次のようなものであるという。
1.無垢の時代――アダムとエバの創造から堕落まで。
2.良心の時代――堕落から洪水まで。この時期において、人間のガイド役を務めるのは良心(「善悪の知識のこと」と定義)である。
3.人間の統治の時代――洪水からアブラハムの召命まで。
4.契約の時代――アブラハムの召命からシナイ山における律法の授与まで。この時期にアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセに特別な約束が与えれた。
5.律法の時代――シナイ山での律法の授与からキリストの公生涯の大部分まで。福音は恵みの時代ではなく、主に律法の時代に属する。
6.恵みの時代――キリストの公生涯の最後から再臨まで。これは教会の時代である。人間は、救いの手段として律法を守る必要がなく、完全に恵みの領域に生きている。
7.王国の時代――千年王国。キリストが再臨されてから、その地上支配の終わりまで。千年は文字通りの千年。
このような分割の方法がディスペンセーショナリスト全員に支持されているわけではない。ブラックストーンは著書“Jesus is coming”においてこの7つの契約期を次のように分割している。
1.無垢の時代――エデンから追放まで。
2.自由の時代――追放から洪水まで。1655年間。
3.支配の時代――洪水からソドムまで。431年間。
4.巡礼の時代――ソドムから紅海まで。427年間。
5.イスラエルの時代――紅海から昇天まで。1491年間。
6.神秘の時代――教会時代。聖霊降臨から携挙まで。すでに1900年以上続いている。
7.顕現の時代――御国の時代。キリストの再臨から新天新地まで。1000年間。
ディスペンセーショナリストを代表するこれらの二人の間でこのような大きな内容の違いがあることに注目すべきである。時代の数に関しても、ディスペンセーショナリスト全員が7つに区分することに同意しているわけではなく、4つに区分する人や8つだと言う人もいる。同一の立場にある者同士でこのような内容や形式の不一致が生じるのは、このような時代区分に十分な聖書による支持が得られていないからにほかならない。仮にこれらの時代時代に特有の原理だと言われるものが、彼らが言うように、必ずその時代だけにおいて排他的に有効であるならば、区分は明確であろう。例えば、律法の時代に、恵みはまったく存在せず、恵みの時代に律法がまったく無効であるということが明らかならば、彼らが述べる純粋な「律法の時代」や「恵みの時代」というものが存在したと考えることができるだろう。しかし、聖書は、モーセに律法を与えた時に、けっして「行いによって救われる」とは述べなかったのだ。神は、奴隷の国エジプトから「犠牲の血によって」贖われたイスラエルに律法をお与えになったのだ。モーセにおいても「恵み」の契約は有効であると聖書ははっきりと宣言している。
それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り(申命記7・12)
また、パウロは教会の人々に向って、「信仰は律法を確立する」と述べ、律法による取扱いが無効になったとは述べていない。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです(ローマ3・31)。
律法の時代にあったイスラエルは恵みの契約を受け、値なしの救いによって救われた、とはっきり宣言されている。また、恵みの時代にあった教会に対して、律法は無効になっていないとはっきり宣言されている。
しかし、スコフィールドは、律法の時代になると、イスラエルは恵みの契約の下から出て、律法の下に入り、律法によって救われる道を選んでしまった、と述べた。
イスラエルは軽率にも律法を受け入れてしまった。…シナイ山において、彼らは恵みと律法を取り替えてしまった(Scofield Bible, p.20)。
スコフィールドは、イスラエルが行為によって救われたと明言はしていないが、この発言から、「恵みを律法と取り替えてしまったため、彼らは律法を守ることによって救われるという『行為義認』の道を歩み出してしまった」と述べているのは明らかである。
恵みと律法を互いに排他的な対立概念とすることはできない。それを支持する個所は聖書には存在しない。もしそのような対立があるとするならば、イエス御自身が「律法を廃棄するために来たのではない」(マタイ5・17)と述べたのはどのように解釈するのであろうか。イエスの公生涯は律法の時代に含まれるというので、これは、もっぱら当時のイスラエル人に対して言われたことだ、と言うのだろうか。それでは、パウロが教会時代の人々に向って、「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、(妻たちは)服従しなさい」(1コリント14・34)と述べたのはどういうわけだろう。また、彼がモーセ律法を権威として引用しているのはどういうわけだろう。「モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか」(1コリント9・9)。「聖書に『穀物』をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです」(1テモテ5・18)。
恵みと律法を対立させることができない以上、「恵みの時代」と「律法の時代」という区分をすることができないのは明らかである。このように聖書のサポートが得られない以上、ディスペンセーショナリストの間において時代区分が千差万別になるのも無理はない。
ディスペンセーショナリストの中には、このような対立が聖書のサポートを受けられないために、律法の時代においても、契約の時代のディスペンセーションが続いていると考える人がいる。
この時から、律法の時代が始まりました。しかし、神がアブラハムと結ばれた契約は存続しており、ただ律法が横からはいり込んで来ただけですから、この時代を特に律法の時代と言って、契約の時代と区分する必要はありません。だが律法がはいり込んで来たために、イスラエルの民の信仰の表現方法、信仰の歩み方が、それ以前とは非常に変化し、神のイスラエルの民に対する取り扱い方も、ずいぶん変化したことは認めなければなりません。そのために、契約の時代が続いていることも認めた上で、律法の時代が始まったとすることも、聖書の理解の上で都合が良いでしょう(山岸登『これで聖書が解りやすくなる』津久野キリスト恵み教会出版部 37ページ)。
律法の時代になっても、「神がアブラハムと結ばれた契約」が存続しており、「ただ律法が横からはいり込んで来ただけ」であるというならば、恵みの時代についてはどうなのだろう。
恵みの時代においても「神がアブラハムと結ばれた契約」が存続しているとどうして言えないのだろう。パウロは教会時代の人々に向かって次のように述べた。
とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものだ。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです(ガラテヤ3・5-14)。
ここで、明らかに「神がアブラハムと結ばれた契約」が教会時代(恵みの時代)のクリスチャンにも及ぶとはっきり述べられているのではないだろうか。もし、律法時代に「神がアブラハムと結ばれた契約」が存続していると言うことができ、それゆえに「この時代を特に律法の時代と言って、契約の時代と区分する必要はありません」と言えるならば、教会時代を特に「恵みの時代」と言って、契約の時代や律法の時代とも区分する必要はないということにもならないだろうか。
(2)
「良心の時代」は、「法律も政府もな」く、「人は、各々、自分の良心によって行動すべき」(同32ページ)時代であるという。しかし、パウロは、ローマ2・14,15において、「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。…彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています」と述べ、当時の異邦人も良心にしたがって歩んでいると述べている。「良心によって行動する」のは、何も第2のディスペンセーションに特有の経綸ではない。
(3)
第3の時代は、「人間の統治の時代」と呼ばれ、「神のために地上を支配せよ」(Berkhof, p.290)との命令を受けた時代であるという。人間は、「前の時代の人類が罪のために大洪水によって滅ぼされたことを覚え、また神が二度と全人類を大洪水によって滅ぼすことはなさらないとの神の契約を信じて全地に増え拡がるべき」(山岸 33ページ)なのである、と。しかし、これらは、創世記1・28に記されたアダムの支配命令と同じものだ。何も「人間の統治の時代」に限定されるべきものではない。「人間はあらゆる時代に神のために地上を支配しなければならない」と聖書は述べている。イエスは、御心が天で行われるように地上でも行われるように祈れと言われた。また、全世界の国民がキリストの命令を守るように教えるように弟子たちに命じられた。キリストの命令とは、霊的なことだけであると限定できるだろうか。キリストの御心は、教会生活やお祈り、伝道などについてだけであり、生活全般についてはどうでもよいということなのだろうか。そうではない。キリストは万物の王になったのであるから、その支配は万物に及ばなければならない。弟子たちに与えられた使命は、あらゆる領域を神のために獲得し、支配することである。あらゆることにおいて、クリスチャンは、神の栄光のために行動しなければならないと言われているのだ。現在も「神のために地上を支配」すべき時代であり、「万物の統治」はクリスチャンにとって使命なのだ。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい(1コリント10・31)。
このようにディスペンセーショナリズムが主張するような時代区分には明確な聖書的裏付けはない。
(4)
ディスペンセーショナリズムは、「神は、その時代に特有の取扱いの方法にしたがって人間を試すが、最後は罪によって失敗に終わる。すると、神は、今度はやり方を変えてふたたび人間をテストする。しかし、それも人間の罪によって失敗に終わる(以下同様)」と述べるが、これは、「神の不変の御属性」と矛盾する教えである。「主であるわたしは変わることがない」(マラキ3・6)とあるように、神は不変のお方なのだ。それゆえ、神には一つの計画しかない。
神は7度もやり方を変えるほど移り気な方なのだろうか、という質問にディスペンセーショナリストであるフランク・E・ゲベレインは次のように答えた。
神はけっして動揺するようなお方ではない。たしかに、ディスペンセーションは7つあるのだが、それらはすべて「服従のテスト」という原則によって貫かれている。それゆえ、もし人間が最初のディスペンセーションにおいて与えられた規則に服従していたならば、他の6つのディスペンセーションは不要であったはずである。しかし、人間は失敗した。だが神はこの罪深い被造物を投げ捨てることをなさらず、彼らをあわれみ、条件を新たにして、服従のテストを再開された。すべてのディスペンセーションは、人間の失敗に終わったが、その度に神のあわれみが現われた(Frank E. Gaebelein, Exploring the Bible, p. 95. cited in Louis Berkhof, Systematic Theology, p.290.)。
ディスペンセーショナリズムは、「行為義認」のテストはエデンの園において終了したという事実を認めない。アダムは、神の命令に従いとおすことによって永遠のいのちを受けることができるはずであった。しかし、アダムは神の禁令を破ったので、永遠のいのちを失って、死を体験することになった。神のテストはここで終了した。ユダヤ人たちは、人間は律法を守ることによって救われるかのように考えていたが、原罪を背負って生まれてくる人間はすべて生まれながらにして契約違反者であり、失敗者である。それゆえ、どんなにテストに合格しようとしても、罪をもって生まれてくる人間は、最初から失格者なのであり、受験資格すらない。神はアダムが罪を犯した直後から、彼と恵みの契約を結び、代償的な死による救いを開始された。そして、その後の歴史は、すべてこの原則に貫かれているのであって、様々な形の試験は必要ない。人間は贖いを受けるべき存在であって、テストされるべき存在ではない。
しかし、ディスペンセーショナリズムは、人間は「服従のテスト」を受けるべき存在であり、神は形を変えて何度も服従を試してきたという。これは、人間の歴史は神のあわれみの歴史であるという聖書の主張と反する重大な誤謬である。
モーセの律法にしても、ノアの律法にしても、クリスチャンが守るように命じられている戒めにしても、神の民に与えられたあらゆる掟は、神の恵みの契約の中にいる者たちに対する「ガイド役」として与えられたものだ。それに従わないことによって、永遠のいのちを失ってしまうような掟は、キリストの十字架において廃止された(旧約時代の聖徒たちはキリストの十字架を望み見ることによって、永遠の犠牲にあずかっていたのであり、彼らも行為義認から解放されていた)。キリストが身代わりに死んでくださったので、律法はもはやクリスチャンに向って「おまえは死刑だ。」とは言わない。クリスチャン(キリスト以前の神の民も含む)にとって、律法は神の義の基準を示して、罪を自覚させるための手段であると同時に、我々の生活を正しい方向に導くガイド役なのだ。
(5)
第1の時代を除いて、ディスペンセーショナリズムが区分するどの時代も、恵みの契約に貫かれている。神は贖いを用意され、贖いを受け入れる者を救い、彼らを神の民として受け入れると述べておられる。神は時々に応じてやり方を変えるお方ではない。神は変わることがないからである。不変の神の方法は、一貫している。それは、キリストを人類の罪の身代わりに十字架につけて殺し、救いを達成しようとする計画なのだ。救いとは、単に天国に行くキップを与えることではなく、人間を総体的に救済することである。単にたましいの救いだけではなく、人間の生活、社会、国家などあらゆる領域を神の御心にかなったものに回復することでもある。クリスチャンは、世界のあらゆる領域が神の御心にかなったものになるように祈り、働くべきである。そのときに、世界は神と調和し、祝福を受け、自由と繁栄と幸福を享受することができる。神はこのような回復のためにクリスチャンを召された。そして、この計画は着々と完成に向って進んでいる。