安楽を求めるのか?
教えに携わる働き人くらい理解されない者はいないだろう。
もし、その教えがその社会において主流派を占めていれば、教える者たちは尊敬もされるだろうし、十分な報いを受けることもできよう。
しかし、その社会の土台となっている諸々の考え方に対して異議を唱える者は、よくて「変人」「遊び人」「無駄飯食い」、悪ければ「反逆者」「裏切り者」と言われるのが関の山である。
進化論が当然とされている社会において、神の言葉を真摯に受け取るクリスチャンは変人であり狂信者である。
人々は創造論を信じている人など尊敬しないし、報いも与えようとはしないだろう。
一番安楽な道は、人と違ったことを言わないことである。
しかし、我々は、安楽な人生を送ろうとなどは思っていない。
「だれでも私について来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」