教会を早死にさせる教え
将来サタンが勝利し、全世界はその支配下に入るという考えが頭の中に入ると、当然のことながら、回りのものがすべてサタンのものに見えてきます。
将来キリストが支配すると考えると、回りのものはすべてキリストのものに見えてきます。
何年か前にディスペンセーショナリズムの宣伝をするためにやってきたというアメリカ人と会ったことがあります。
彼ははっきりと、「社会が変わる」という考えを「楽観論」と決め付け、この教会時代においては、神は歴史の中において、また、現実の生活において、裁きを下すことはない。裁きは、すべてキリストの再臨後にある、と明言しました。
ディスペンセーショナリズムを信じると、この教会時代の間は、クリスチャンの背後には神の後ろ盾がないということになるのですから、当然オタクになる以外にはありません。
クリスチャンが戦っても勝つか負けるかはわからない、いや、むしろ反キリストの支配下に大患難がやってきて、すべてつぶされてしまうのであれば、戦いのモチベーションは完全に奪われます。
「私たちの運命は決まっています。それは聖書に書かれています。私たちは必ず負けるのです。」と言われれば、「じゃあ何をやっても無駄だ。」ということになる。
当然、クリスチャンは、教会という閉鎖社会の中で、もっぱら方向性のない霊的な相互慰撫(交わり)や、霊の高揚大会(リバイバル)をやることになる。「もうすぐ携挙があります。それまでの辛抱です。」
これは、明らかに敗走者の心理であって、戦闘者の心理ではありません。
敗走者の集団に魅力があるはずもないので、教会には人が集まらず、献身者も起きない。これまでは、教会は宗教改革の遺産により、幾分征服モードが残っていましたが、今後、前説の内容が顕在化し、「福音の本質は逃走であり、この矛盾に満ちた世界から逃げ出すことである」という考えが徹底してくると、教会には、ただ逃げを打つことしか考えない臆病者しか集まらなくなるでしょう。
人間は、そもそも「地を従えよ。」との征服命令を実行するために造られているので、「現実逃避」は人間の本質と矛盾しています。健全な精神は、常に「支配の拡大」を目指すものであり、将来について楽観的なのです。
治癒の希望を奪われた病人は予定よりも早く死ぬと言います。
前説は、教会を早死にさせる教えなのです。