エデンの園について
<ご質問>
創世記
3章に、蛇が登場します。蛇が女エバを誘惑するわけですが、この蛇というのは、文字通りの蛇のことなのでしょうか?「天地創造」という映画の中では、この蛇には男性の顔があって、光り輝いて、足があったように思うのですが、文字通りの蛇であるとするならば、かねがね、犬や猫など他の動物ではなく、なぜ蛇なのか、なぜ悪魔は蛇を使ったのかと思っています。「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」(創世記
3:1) その狡猾性というものが関係があるのでしょうか。一般の考えから言いますと、チンパンジーの方が狡猾(頭がいいと言ったほうがよいかもしれませんが)なものと考えられていると思いますが、聖書で、蛇が一番狡猾であると言われているのはどういう意味でなのでしょうか?また蛇とサタンとの関係、蛇神崇拝などとの関係について、富井師のご意見をお聞かせ下さい。以下は、私の個人的な体験なのですが、小学生の頃、隣の家が、具体的にどういう宗教なのかわからないのですが、所謂「拝み屋」で、加持祈祷を生業とする人であったのですが、家の中に大きな仏壇があって、その仏壇に大きなアオダイショウがまつわりつくという出来事があったのですが、これは単なる偶然か自然現象でしょうか、やはり現実に存在している蛇と悪霊的なもの、偶像礼拝というのは関係があるのでしょうか?創世記に出てくる、蛇が文字通りの蛇であり、現在、地球上に存在する蛇が創世記の蛇から生まれたものであるとすれば、関係がないとも言えないと思うのですが。
<お答え>
創世記の蛇は文字通りの蛇だと思います。
エデンの園の話をすべて「象徴」と解釈し、「神との交わり」を示している話に過ぎない、エデンの園が実際の場所としてあったかどうか分からないと考える人がいますが、そのように解釈すると、地を耕したり、子供を産んで、地を満たせ(1・28)という命令も、象徴と考えなければならないのか、ということになります。つまり、例えば、これは、伝道によって全世界にクリスチャンを増やすことを意味していると「霊的に」解釈しなければならないのか、ということになります。もちろん、そうではありません。文字通り、神の民は、家庭を通じて(つまり生殖を通じて)増えて広がらねばならないのです。神の国をもっぱら霊的な方法(つまり伝道)による拡大に限定してしまうならば、聖書の啓示をひどくゆがめてしまうことになります。
創世記は、ギリシャ二元論のように、「肉」に属することを軽視したりはしません。
人間は、神の霊的な栄光を、物質世界において反映するために創造されたわけですから、人間ははじめから物質世界との関わりを濃厚に持つものとして作られています。それゆえ、神との交わりは、単に霊的なものとしてだけではなく、ある一定の場所
--美しく楽しく、全てにおいて調和のとれた平和と発展の園--としても表現されたはずです。今日、クリスチャンは、神の国を表現する場合に、単に、神の福音を伝えて、教会を作り、愛の教えを宣言するだけではなく、その愛が目に見える業として表現されねばならないと思います。例えば、孤児を養うとか、病院を作るとか、社会的弱者を助ける働きをするとか・・・。ヤコブが「行いのない信仰は死んでいる」と述べているとおり、何でもかんでも霊的に解釈してしまうキリスト教はキリスト教ではなく、死の宗教になってしまいます。
神の国は、具体的に、この世界の中において、愛と平和と義と調和と発展の場所として具体化されねばならないならば、当然、エデンの園というものも、具体的に神がご自身で創造された目に見える場所であったと考えざるをえません。