偽りの価値基準からの解放
日本人は、人の人生の「標準過程」を作って、それを他人に押し付けることが好きである。
いったん就職したら、その会社にずっと勤めるべきだ、そこを辞める人は、人生を甘く見ているのだ、とか、女はだいたいこの年齢で結婚して、これくらいの人数の子どもを何才までに産んで…などという見方が最近まで大手をふって歩いていた。
そんなこと聖書のどこに書いてあるのだろうか?
このような、社会が勝手に決めた掟に振りまわされているのは自立できない人間の証拠である。
この社会全体が、自立できない人間で満ちているから、登校拒否などという問題が起きる。
学校に行くことは、人間にとってそんなに価値があるのだろうか。
一流の大学を出て、一流の企業に勤めないと落伍者なのか?
そんなこと、一体誰が決めたの?
そんなこと、聖書が教えていますか?
唯一、我々が持つべき人生の「標準過程」とは、神が導いてくださる道を素直に歩むということでしかない。
聖書の中において、神は、しばしば人間の歩むコースを変えられる。
「右に行け、左に行け」と言って、イスラエル人を荒野で導かれた。
預言者たちは、しばしば神の導きに従って、職を辞して、徒手空拳でイスラエルの民の中に出ていった。
国家主義者や会社主義者の決めた人生のコースに従えなどと聖書は述べていない。
そのようなコースだけが「マトモナコース」であると信じることは、「偶像礼拝」なのだ。
そして、そのようにクリスチャンが主張するならば、それは、クリスチャンがノンクリスチャンの価値観に毒されている証拠なのであり、聖書が教える神の取り扱いを知らないからなのだ。
まず聖書を読もう。そして、聖書が教えることだけに頼ろう。そうすれば、人間が作った偽りの価値基準から解放されて、もっと自由になれるだろう。