神は我々とともにおられる
「世界は敗北に向っており、クリスチャンがどんなに努力しても、世界の独裁者として終末に現われる反キリストの支配に勝つことはできない。だから、クリスチャンがこの世界を変えようとして無駄である。」という終末論を持つキリスト教は、キリストの復活を否定する擬似キリスト教である。
復活の主を本気で信じるならば、どうして、悲観的な終末観を持つことができるだろうか。
現在の世界がどんなにサタンに支配されているように見えても、また、どんなにクリスチャンの力が小さく見えたとしても、復活を信じる者たちは、逆転勝ちを期待できる。
なぜならば、究極の失敗である「死」に勝利したキリストは、それよりも小さな失敗である「サタンによる世界支配」にも勝利できると信じることができるからである。
どのような形であれ、絶望や失望はクリスチャンにとってふさわしくない。
それが、個人的な失望であれ、国家的な失望であれ、宇宙的な失望であれ、あらゆる失望はキリストの復活を否定することである。
まして、主御自身が「世界のあらゆる国民を弟子としなさい。」「御心が天で行われるように地上でも行われるように祈りなさい。」と命じておられる以上、それができると信じることはクリスチャンにとって義務である。神が「やれ!」と命じたことは、すべて「できる」と信じるのは、クリスチャンの当然の務めである。
「神様、あなたは、世界のあらゆる国民を弟子としなさいとか、御心が天で行われるように地上でも行われるように祈りなさいと言われますけどねえ、現実を見てくださいよ。こんなにサタンが跳梁している世界を変えることができると思いますか?無理難題を押し付けないでくださいよ。」という不信仰は、サタンに由来する。サタンは、人間に絶望感を与えるのが得意である。
荒野で滅びた民は、「主は我々の間におられるのか?」と疑った。
「主は我々とともにいます。」と告白した者だけが生き延びた。
サタンは、我々に、「神の不在」をささやきかける。
しかし、我々は、「神は共にいます」と告白しなければならない。
クリスチャンの体は、「聖霊の宮」である。つまり、主の神殿である。
クリスチャンのうちには、神が住んでおられる。
我々のうちにおられる聖霊は、我々を強め、不可能に見えることを可能にしてくださる。