これからの天皇制

 

<ご質問>

4/9日付けの朝日新聞夕刊に、天皇制を巡るハーザー誌の記事が掲載されているとのことで、さっそく見てみましたが、私が見落としているのか、関西版には掲載されていないのか、掲載されていませんでした。どういう内容の記事であったのでしょうか、大手一般紙の朝日新聞がどういう主旨で、ハーザー誌の対談を取り上げているのか、教えていただければ感謝です。また笹井氏と石黒氏の対談の内容については、クリスチャン新聞で読みましたが、対談について富井師の意見を聞かせてください。聖書がこの世界について唯一の正しい考え方を教えるとするならば、天皇制についてクリスチャンの考え方も一つであるべきだと思うのですが。

 

<お答え>

まず、以下、記事を転載します。

朝日新聞2001年4月9日夕刊

 

「天皇制は布教の壁か」
キリスト教の方向探る討論会
 
キリスト教を布教するために天皇制は壁なのか、という討論会があった。偶像崇拝への警戒感と、日本の伝統を重んじる意見の対立だった。     (菅原伸郎)
 
 3月26日、東京・お茶の水の会議室で「日本宣教と天皇(制)」という討論会が開かれた。約50人を前にこんな意見が交わされた。
「キリストさまに代わるものは、すへて偶像崇拝ではないか」
「天皇制は宗教てはない。偶像崇拝の対象とはいえない」
 出版社「マルコーシュ・パブリケーション」の笹井大庸社長が、自社の月刊誌「ハーザー」で始めた連載が発端だった。
「日本の教会には『天皇制が宣教の最大の壁』という空気がある。そんな姿勢だから、信徒かなかなか人口の1%を超えない。天皇と日本文化は切っても切れないのであり、壁と見るべきでない」という趣旨だ。
 50歳の笹井氏は「日蓮系団体の影響を受けて右翼だった」という経歴の持ち主でその後、聖霊派のキリスト教に入信した。最近は内村鑑三や滝沢克己の天皇観を論じ、自説を展開している。
 笹井論文を流み、福音派根本主義の教団「美濃ミッションの石黒イサク牧師が電子メールで反論した。「戦前、神社と天皇を受け入れた日本のキリスト教がずっと不振なのに、抵抗した韓国では伸びている。あくまで真の福音を伝えることが大事で、安易な妥協から道は開けない」
 美濃ミッションは、聖書を言葉通りに受け止めて偶像崇拝を厳しく拒否する。昭和初期から終戦まで、信徒の子どもが学校からの神社参拝を断って、岐阜県や三重県にあった教会は警察や新聞に攻撃された。
 この応酬を知った「クリスチャン新聞」と「リバイバル新聞」の編集長が司会役になって、今回の討論会になった。42歳の石黒氏は迫害された歴史を語り、こう訴え、「明治以前の民衆は天皇をよく知らなかったのであり、軍国主義が天皇信仰を植え付けたのだ。それから脱却してこそ、真の信仰に導かれます」
 笹井氏も、戦前の神社参拝強制や海外侵略は間違いとする。その上で、新約聖書にある使徒パウロの伝道を評価して「ユダヤ人にはユダヤ人向けに、ギリシャ人にはギリシャ人向けに、それぞれの国柄を認めつつ福音を広めた」という。
 討議の途中で、笹井氏は「聖徳太子が他教を大切にしたように、宗教と国体・政体とは別な問題だ。仮定の話だが、皇室に福音が伝えられ、天皇が信徒になられるなら、すばらしいではないか」と発言した。
 石黒氏が「英国王室のように『王として』というのならともかく、『神として拝め』という空気がある限りは危険だ」と応じると、笹井氏は「緩やかな王制ならいい、というのなら理解し合う道はある」と話した。
 傍聴席からは、桜井圀郎東京基督教大学教授が「天皇制や権力とともに仏教は栄えたように見えるが、葬式仏教に堕し、本来の仏教から遠くなった。天皇制をただ受け入れればいいのではない」と述べた。「政教分離の会」の西川重則事務局長(改革派東京教会名誉長老)も「支配と侵略の事実に基づいて考えるべき問題だ」と指摘した。
 しかし、ルーテル派信徒の会社役員・古沢三千雄氏は「崇拝すべきものと尊ぶべきものは分けて考えたい。軍国主義に利用された戦前の皇室と現代の皇室とを混同すべきでない」と反論した。
 キリスト教界でも意見の分かれる問題だ。カトリック作家の三浦朱門氏は昨年秋の『天皇――日本の体質』(海竜社)で《国家体制の中央にあいた空間、それが天皇だ》と肯定している。
 今回の催しは、福音派と聖霊派が中心になって開いた。聖書解釈や偶像礼拝については厳格で、進化論を認めない人も多い。約3時間の討議に限っては、笹井氏批判の声が大きいようだった。
 
《写真――笹井氏と石黒氏》
「天皇は日本の文化」と主張する笹井大庸氏(左)と迫害されたポスターを示して訴える石黒イサク氏
 

 

聖書は、必ずしも王制を否定していません。

ユダヤは王制でした。

 

ただし、「王」という意味は、異教におけるそれと聖書におけるそれとは違います。

異教は、その本質において「政治的宗教」です。つまり、宗教とは、国家またはその他の人間的権力の体制を維持するために作られた人造宗教でしかありません。そして、王とは、その国や秩序を維持し、人心を掌握するために神と人との間に立つ祭司の役割を果たします。

聖書以外の宗教は、すべて人間を神とする偶像礼拝であり、人間は権力を維持するためにあらゆる手段を使って体制の恒久化を計ります。

 

徳川の士農工商身分制度にしても、インドのカースト制度にしても、体制を維持するために作られた迷信的制度であり、そこで信じられている宗教とは、その体制にお墨付きを与えるための御用思想でしかありません。

御多分にもれず、天皇制も、明治政府を確立し、国体を保つために作られた人造宗教でしかありません。

それに宗教性を与えているのは、人間の宗教心を利用しようとしたからであって、本当にそのような宗教が教える世界(日本の祖神群など)が存在するわけではありません。

 

日本の祖先崇拝は、家制度を維持するための便宜的な宗教だったので、核家族化が進むと次第に人々は墓参りに行かなくなりました。それと同じように、貿易の自由化、高速交通の実現、インターネットによる情報の自由化などで明治以降の近代国家の体制が崩壊しつつある今日、国家を維持している宗教の本質も変化しています。

 

国民の意識を統一して、帝国主義勢力に対する抵抗もしくは自ら帝国となって海外に進出することを目指して富国強兵に努めた近代日本という国家体制は、脱植民地化や脱主権国家化などグローバリズムの時代において、変質しつつあり、天皇の存在もそれに伴なって意味が変化しています。

 

そのような変化を見ずして、いまだに「侵略・迫害」をうんぬんするのは、時代錯誤もはなはだしいといわねばなりません。

 

ロシアの原潜事故に現われているように、再び砲艦主義で世界において覇権を確立しようとする試みはある意味において(ヘーゲルが言う「歴史は神でありそれに逆らえない」という意味ではなく聖書の神の導きに反しているという意味において)「時代に逆行して」おり、失敗するのは目に見えています。

 

これからは、覇権の時代ではなく、自由貿易の時代であり、国家主導の時代ではなく、個人主導の時代です。

 

これまでは、産業社会は、重厚長大志向であり、資本を持つ者が持たない者をこき使ってきました。

産業革命は、鉄鋼や輸送など資本を持つ者が圧倒的な優位を持つように導き、また、その技術を利用して世界において覇権を確立するために列強を海外進出に駆り立てましたが、今日、このような強盗泥棒主義は時代遅れとなっており、世界は二度の大戦によって、「力を善用しないと痛い目にあう」という神からのお灸を据えられています。

 

日本の政治が迷走しているのも、このような変化に対応できていないからです。

 

これから、どんどんとグローバル化が進めば、国と国との境目がなくなっていき、資本の行き来がますます自由になります。インターネットは情報を自由化しましたが、自由化は様々な分野において進むでしょう。

そうすると、国民は、海外の安い商品やサービスを手に入れることができ、消費者主導の傾向が強くなるでしょう。

 

そうした場合、国家の役割とは自然と、19世紀末からの「世話好き国家」モデルではなく、「個人の自由と自己責任を保証する警察国家」モデルに変化するでしょう。

 

聖書は、国家が「教育」「福祉」「文化」を担うべきだとは述べていません。あくまでも国家の役割とは、「義のしもべ」なのです。つまり、国家は、「防衛と警備」を担うものであり、「教育」「福祉」は主に教会や家庭が担うべきです。

 

このように国家が自分の役割を聖書から正しく自覚するならば、我々の税金は非常に低く抑えられるでしょう(国家は10%以上徴集してはならない(神の取り分である十分の一を超えるものを人間が徴集する権利はない))。

そして、我々の所得は我々の良心や裁量によって自由に正しい目的のために利用されるでしょう。

教会への献金は、文化・教育・福祉のために利用されるでしょう。

 

このような自由の体制においては、今日のように50%もの税金を奪い取られることがありません。そのため、勤勉な個人は、働いただけ自分に返ってきますので、勤勉な者はますます勤勉に、怠け者はますます貧乏になるという聖書的な好循環が起こるようになります。

 

今日のような、共産主義的な「結果の平等」政策を行っている限り、勤勉な者の金銭が怠け者や売国奴の政治家や役人などの手に渡り、いつまでたっても聖書的な「義の支配」は実現しません。

 

 

聖書は、勤勉な個人の力は強くなり、地上に義の支配を打ちたてることを命じていますので、それを妨害するような今日の国家体制は崩壊しなければならないのです。

 

事実、聖書は、このような世界の到来を預言していますので、これからは、マルクスの影響は次第に薄れていくでしょう。そして、消費者が国境を超えて質がよくて安いものを手に入れることができるようになりますので、これまで国に集中していた力はますます分散されるでしょう。この傾向は教育や宗教の面においても現われるでしょう。

 

人々は、これまでの国家主義の教育が破綻しつつあると知っています。

これまでのような国家主義の教育に代わって、新しい教育が起こる必要があります。

しかし、人々は、それが何であるか知りません。

 

今後は、これまでのヒューマニズム体制をしっかりと批判して新しい代替案を提示できる宗教が勝利するようになるでしょう。そして、教育は、その宗教に基づくものが勝利するようになるでしょう。

 

ヒューマニズムを乗り越える宗教は聖書的キリスト教しかありません。

これからの千年紀は、キリスト教の勝利の過程になるでしょう。

 

その意味において、これまで帝国主義的国家に利用されていた天皇を、同じ理由で拒否することはナンセンスです。これからは、天皇は、聖書的国家となる運命にある日本を支える役割を果たすようになるでしょう。

 

クリスチャンは、このような新しい天皇像を作っていく必要があるでしょう。天皇を廃位することはけっして解決にはなりません。歴史を眺め、正しい位置付けを与えない限り、天皇批判は、単なる感情論の域を出ないでしょう。

 

 

 

 




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