勝利の終末論とは?
<ご質問>
プレ・ミレは勝利の終末論です。なぜならば、福音を伝えて、ある程度まで至るとキリストが再臨されて全地は神を拝むようになると信じるからです。反キリストの世界征服などというプレ・ミレの人々の説を私は取りません。
<お答え>
勝利の終末論と私たちが述べているのは、「伝道の面だけ」とか「教会の面だけ」に限定された勝利ではなく、「万物においてキリストが主権をとり、勝利することを主張する終末論」のことを指しているのです。
たしかに、反キリストの世界征服を信じないプレ・ミレの立場の方は、「福音伝道の面に関しては」勝利の終末論であるかもしれません。
しかし、ある領域において限定的に勝利し、その範囲において神であると宣言したからといっても、それは、多神教を越える神ではありません。多神教の神は、地域や領域に限定されている神です。しかし、我々が信じているヤーウェの神は、宇宙を創られた創造者なのです。万物に対して主権を持つと自ら宣言しておられるのです。
そのような神様が、「わたしは福音伝道の領域だけで満足じゃよ。」と言うはずがありません。
「天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。」(詩篇89・11)
「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」(エペソ 1・10)
聖書が述べる勝利の終末論とは、「天地万物に神が主権を確立できると考える終末論」なのです。
<ご質問>
「天地万物に神が主権を確立できると考える終末論」であるなら、プレ・ミレも同じです。再臨のキリストが万物に対して主権を確立してくださるからです。
<お答え>
プレ・ミレは、「キリストが全部やってくれるから、クリスチャンが歴史内で勝利するかどうかは関係ない」とするのですから、やはり、敗北の終末論です。
もちろん、これは定義の問題ですから、「クリスチャンがやるにしろ、キリストがやるにしろ、最終的に万物に主権を確立できるものを、勝利の終末論と定義する」というならば、プレ・ミレも勝利の終末論でしょう。
しかし、聖書は、このような定義は無効だと考えます。
なぜならば、聖書の根本的なテーマとは、「神の民が信仰によって現実を切り開いてそこに神の御国を作る」ことにあるからです。
もし、「神が直に神の国を作られる」ことがテーマであるならば、アダムに対して「地を従えよ」とは言わなかったでしょう。自分で一瞬のうちに地を従えることなど可能なのですから。
また、イスラエルに対して「カナンを征服せよ」とは言わなかったでしょう。なぜならば、神は一瞬のうちにカナンを征服することなどわけないからです。
また、弟子たちに対してイエスは「全世界の国民を弟子とせよ」とは言わなかったでしょう。なぜならば、イエスは一瞬のうちに全世界の国民を弟子とすることなどわけないからです。
全能の神に不可能なことはありません。そうであれば、「じゃあ、なぜこのような苦しい歴史が続いているのか?なぜ、神は一瞬のうちにすべての人をクリスチャンにして、神の支配を世界中に確立し、パラダイスを到来させないのか。」という疑問が起こるのは当然です。
神は、「世界の歴史は、神の民の労働と努力によって切り開かれるべきである」と考えておられるのです。そこにこそ、神の栄光が現われると神は考えておられるのです。
それゆえ、神は、着実性を重視しておられるのです。一攫千金はキリスト教的ではありません。ギャンブルがなぜ罪であるかは、人間に与えられた被造物支配の使命を無視しているからです。
神は、全世界の人々の前に栄光の姿で登場して、すべての人を悔い改めさせることもおできになります。
しかし、これは、神の栄光の現し方ではないのです。
神の栄光は、キリストの謙遜と奉仕と犠牲という、「神のへりくだり」のうちに現われるのです。また、キリストを信じる民が、へりくだって、神のために生涯をささげて、着実な労働と謙遜のうちに、発展と繁栄を実現するなかで明らかにされるのです。
だから、人間の基本は、一瞬の奇跡にはなく、毎日の着実な小さな積み重ねのうちにあるのです。神の御国は、小さな仕事を無視しない人の所にのみ現われるのです。
こういった意味において、プレ・ミレは、勝利の終末論とは言えません。プレ・ミレが、世界に神の国を登場させる方法は、突然のキリストの再臨によります。そのときに、イスラムの人々でも、無神論者でも、ユダヤ人でも、すべての人々が、雲に乗ったキリストの前にひざをかがめるのです。そして、それから千年間、キリストとクリスチャンは支配して、彼らを従えるのです。
こんなやり方は、「全体主義」であり「暴力的」です。今、10億人ものイスラム教徒をどうやってキリストにぬかづかせることができるのですか?暴力以外にないではないですか。イスラム教国の各地にクリスチャンの指令によって派遣されたKGBのような人々が、たえず、彼らがキリストに服従するように監視するわけですか?
あくまでも、歴史内において、人が救われ、キリストにぬかづくのは、「自発的」でなければなりません。
キリストが来られたのは、「人に仕えるためであって、裁くためではない」からです。
もしイスラムの国の人々が、キリストを礼拝するようになるとしても、それは、強制によるのではなく、あくまでも自分から進んででなければなりません。
つまり、クリスチャンがイスラムの人々に伝道して、彼らがアラーの神をやめて、キリストを礼拝するように愛によって導く以外に方法はありません。
これまで、聖霊は、このようにして、異教国ローマ帝国をひっくりかえし、荒くれ者のゲルマン人やアングロサクソンをキリストの前にひざまづかせ、首を狩っていた未開の部族を毎週教会に通わせてこられたのです。聖霊は、暴力とともには働きません。
聖書が教える勝利の終末論とは、「愛と謙遜と奉仕によって、神の国は全世界に及び、この歴史内において、すべての国民がキリストの弟子となる」と信じる終末論なのです。