悪を選択する自由は神の愛から出ている
>また、そのアンドロイドが、人と同等に自由であった(無制限の自由
>をもっていた)のであれ、「そんな制御不能なものを作ったYOTOYAが
>悪い」となるでしょう?
つまり、神は罪を犯さないように人間を創造すべきであった、という御主張ですが、このような存在は偉大ではありません。
善と悪を判断し、そのいずれかを選択する可能性を与えたということは、それだけ人間を偉大な存在としようとされたからです。
善だけしか選択できないように作ったならば、それは、それこそアンドロイドであって、「生身の人間」ではありません。
喜怒哀楽を持ち、善と悪とを区別して、その上で善を選択するときに、人間は、はじめて神を象徴することができます。
例えば、相撲の世界が年功序列でできていればどうでしょうか。
誰もがある年齢になれば横綱になれるならば、相撲は存在価値がありません。相撲が人気を維持しているのは、成功するだけではなく、失敗する可能性があるからです。いつも白星しかないようなゲームに人は集まりません。
リスクがあるからこそ、人生には意味があるのであり、リスクを排除した人生には安定はあるかもしれませんが、「本物」を見ることはできません。
人間は失敗の可能性のある中において、積極的に神に従うことによって愛を表すことができます。もし神を愛するしか選択の余地のない存在として創造されたならば、本当の意味において神は人間を尊んでいないのです。
例えば、「私はおまえを愛する」と告白する男性が、女性が間違いを犯すことがないように、一日中家の中に閉じ込めて、一切外に出さず、籠の鳥として拘束するならば、それを愛と呼べないのと同じです。
女性を本当に愛するならば、人間として尊重し、自由と責任を与えるはずです。