進化論とマルクシズム
進化論は、かつてのマルクシズムの発展段階説に似ています。これらはどちらもヘーゲルの弁証法的歴史発展説の非神話化の切り札として現れたものですが、マルクシズムは史実性という点において決定的な問題をかかえていました。
すなわち、原始共産制から奴隷制、封建制、資本主義、社会主義、共産主義という筋道で歴史は段階的に発展する運命にある、と主張したのに、現実にかつて原始共産的共同体があったという証拠はありませんでした。また、資本主義から社会主義にかならずしも至るというわけではなく、現実の世界では資本主義は資本主義のままであり、発展するはずであった社会主義から共産主義への移行は実現しないまま、ソ連は崩壊しました。つまり、マルクスが考えたような筋道をかならずしも現実の世界はたどらない。これはそもそも歴史が発展するなどという近代の支配的な歴史観に従ったことに問題があったのではないか、という反省が起こってきたわけですが、同じことは、進化論についても言えるでしょう。進化論に存在する「非史実性」は、進化論がマルクシズムとまったく同じ道をたどることを暗示しています。理論に照らして存在するはずのものが存在しない。進化論の考えに反して、種は非常に安定しており、種と種の間には大きな断絶があって、中間種を作り出すことが非常に難しい。作り出しても長生きしない、子孫を残さない。化石だけではなく、実際に生存しているはずの、進化の過程にある、試行錯誤の最中の生物と思われるものが少ないか存在しない。このような非連続はいったい何か?カエルやミミズやサルなどと同じくらいどうして普遍的に、猿人が生存していないのか。淘汰されて残ったはずの生物がなぜ、あるものは残り、あるものは残らなかったのか。それは単に現在の環境が適していたかどうかによる差であると片付けられるであろうか。単純に素直に考えてみれば、猿人が現在サル並みに多数生存していないのは、「そもそも存在しなかったからだ」といわざるを得ないのではないだろうか。これだけ進化を否定する要素が揃っているのだから、マルクシズムと同じように、その根本に横たわる歴史観に立ちかえって考え直してみる必要があるのではないだろうか。「本当に世界は進化しているのだろうか?」と。