キリスト教は信じるだけで救われる宗教か?2
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ご質問>いつも気がつかされる聖書に対する視点を頂き、感謝しております。
一つ質問してもよろしいでしょうか。
キリスト教は信じるだけで救われる宗教か?という問いかけに対する答えとして、
>クリスチャンになったらすべてが許されて天国に行けるというのはまったくの間違い
>です。
ということで、天国には、「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる」というイエス様の言葉は、まさにそのとおりだと思います。ただ、その際、「父のみこころを行う」ということの内容については、ヨハネの福音書で、イエス様が、
6:38わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。
6:39わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
6:40わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのだ。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
といわれ、「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得る」と、キリストに対する信仰によって、人間が永遠の命を獲得することが神のみ心であり、それをまさにおこなうために、イエス様は天からこられたという言葉や、
また、
6:28そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
6:29イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。
という個所の、神の業を行うことを尋ねた民に、キリスト信仰こそ、神の業と答えられたイエス様の言葉をも踏まえて、マタイ
7: 21の「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる」といわれている「父のみこころを行う」というの意味をとらえる事も、必要ではないかと思ったのですがいかがでしょうか。マタイの文脈からは、まさに、「主よ主よ」といっているだけでなくて、山上の説教にあらわされた律法の本質を行うことこそ、父なる神のみこころだとイエス様はいっていると思います。ただ、ヨハネの福音書に示されているように、神は、キリスト信仰によって、人間が永遠の命を得る事を願っており、それが神のみ心だとイエス様は言われているということも、大切ではないかと思うのです。
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お答え>その通りです。
バランスという意味においては、「愛」と「業」のどちらも欠いてはならないと思います。
現代の福音的教会の場合、バランスを欠く傾向があり、「愛」だけが強調され、救いを受ける者としてのふさわしい有り方を問題にしなくなっているように思われます。
人間は、自分の行為によっては絶対に救われません。救いの唯一の条件は、キリストへの信仰です。
しかし、この「信仰」という意味は、「ただ単に口先で信じます」ということではなく、「キリストを王として迎える」ことを意味しています。キリストを主として受け入れるということは、この世のすべてに勝ってキリストを愛し、キリストの戒めを守り、自分のすべてを投げ出して神の御国のために働くことです。
もしそうでなければ、その人にとって、自分が王になっているのであり、彼は依然として、神を神として崇めない偶像礼拝者です。
もちろん、偶像を礼拝する者は、天の御国に入ることは絶対にできないのです。
「それでは、一体誰が救われるのだろう。そんなに聖人君子のような人間でなければ天国にいけないのか。」とある人は言いますが、彼は、救われる人と救われない人の違いは、「悔い改めるかどうか」という一点にかかっていることを理解していません。
つまり、もし小さな罪でも悔い改めてやりなおし、謙遜になって神の恵みをひたすら求める人は、神によってよみせられます。彼は、キリストを王として受け入れているのですが、自分の弱さのためにそれを行うことができないからです。
しかし、罪を悔い改めることをしなくてもいい、何をやっても救われるのだから、適当にやっていればよい、というような人は、キリストを王としているのではなく、自分を王としているのですから、確信犯です。
罪人には
2種類があるのです。それは、「出来心で罪を犯す人」と「確信を持って罪を犯す人」です。どのような国家でもそうですが、革命家は絶対に許されません。既存の体制そのものを破壊するような人間は、人体で言えば癌であり、癌と仲良くすることはできません。
しかし、出来心から罪を犯して、悔い改めるような人は、既存の体制を認めているのですから、そのような人は、その体制の中で生き残ることが許されます。
キリストを信じて本当のクリスチャンになった人は、「神様。私は罪人です。これからも罪を犯すと思いますが、犯したくて犯しているわけではありませんので、どうか私を哀れんでください。」と言いますが、偽のクリスチャンは、「神様。私は自分の好きなように生きて、自分の欲望を満足させるためにこれからも生きていきます。あなたが聖書において何を言おうと、わたしは自分が好きな教えだけを受け入れ、嫌いな教えを無視します。」と言います。
このような人は、キリストが目の前に現われたら十字架につけるような人です。パリサイ人など当時の指導者は、本当のところ、神を崇めているのではなく、自分を崇めていたのです。自分が築き上げた体制にとって、キリストは邪魔者でした。自分の王国を作って、神の御国を望まなかったために、彼らはキリストを十字架につけたのです。
偽のクリスチャンの特徴は、「主よ。主よ。」といいながら、「御心を行わない」ことです。心には強い自我があります。聖書を最高権威とするのではなく、自分が聞きたい教えだけを聞こうとして、「耳障りのよい」教師のもとに集まります。
教会は、確信をもって罪を犯す人を除名しなければなりません。悔い改めている人を追い出すべきではありません。
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ご質問>それから、
>罪を犯して悔い改めない人は、どんなに自分がクリスチャンであると言っても、御
>国 に入ることができません。
>神は、悔い改める者を許します。その許しは絶対の許しですから、100%許されます。
>しかし、悔い改めることをしないクリスチャンの罪はそのまま残りますので、彼は地
>獄に行きます。
>クリスチャンになったらすべてが許されて天国に行けるというのはまったくの間違い
>です。
>「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、
>天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 」(マタイ7・21)
>「行う者」だけが入れるのです。
となりますと、ヨハネ福音書でイエス様が示している、「神のみ心」はどこに言ってしまうのだろうという気がしたのであります。
ということは、人が天国か地獄にいくのは、キリストに対する信仰の有無よりも、その人が、罪を悔い改めたか、悔い改めていないかということが決定するという意味に受け取りました。
エペソの手紙で語られているクリスチャンの選びと神の子の身分の定め、そして罪の赦しの約束がありますが、
1:4みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さった。
1:6これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けた。
これら神の選びや定めも、人間の悔い改めないという人間の側の都合で、破棄されうるし、子たる身分はも剥奪されうるし、罪も残り、地獄に行くことがあるという理解でいいのでしょうか。それとも、そういう悔い改めない人は、もともと神の選びや定めの下になかったという理解をしたほうがいいのでしょうか。
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お答え>悔い改めは、人間の側の都合で行われるのではありません。
もちろん、悔い改める行為は人間が行うものです。しかし、人間は徹底して堕落しているので、悔い改めることすら、神の側の選びがなければできないのです。聖書は、人間を霊的死人と呼んでいます。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…
」(エペソ 2・1)死人は、けっして自分から救われたいと思いません。彼は、浮き輪を求めて手足をバタバタつかせている溺れかかった人ではなく、すでに心臓が停止し、海底100mのところに沈んでいる溺死者です。
それゆえ、救われたいという強烈な思いを抱くことすら死人にはできないのです。彼は、自分の罪の中に安住し、けっして神に助けを求めようとしません。むしろ、罪の生活を邪魔する人々を毛嫌いしています。このような人々は、キリストがやってきたときに、「我々は彼に王になってほしくない」と述べ、キリストを十字架にかけるのです。
したがって、聖書は、救いとは、神の側の一方的な恵みであると述べているのです。私たちが救われたいと願ったから救われたのではなく、私たちが自分からすすんで悔い改めたから悔い改められるのではないのです。
もし、人間の側に救いの主導権があるとすれば、「救い」とは恵みではなくなります。
また、私たちがなすすべての良き業も、ひたすら神の恵みから出ています。神のために働きたいという願い、努力、苦労もすべて神の恵みにより、一方的に与えられたものです。
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
」(1コリント15・10)選びという視点から見るならば、このように、悔い改める人は、選ばれている人であり、悔い改めない人は選ばれていない人です。
悔い改めるかどうかは、救いにおいて決定的であり、それを救いの中心に置かなければ、「いったい救いとは何か。」ということになります。
悔い改めることをしない人が受けたバプテスマは、バプテスマではありません。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
」(詩篇51・17)どんなに立派ないけにえを捧げても、「砕かれた、悔いた心」がなければ、何にもなりません。キリスト教の中心は、「悔い改め」であり、それは、救いの絶対条件です。
悔い改める気のない人は、バプテスマも聖餐も受ける資格はないのです。神は御自身の計画にしたがって召された人々に悔い改めの心を与え、謙遜をお与えになります。選びの中にない人は、神の御前において傲慢であり、「あざける人」(詩篇
1・1)です。
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ご質問>私が教会で教えられているのは、私たちは、キリストを信じる信仰によって救われたゆえに、神のその愛に答えて、神に喜ばれる歩み(律法の本質を行う)に招かれている。(その力として、聖霊を受ける)。その際、悔い改めは、神の愛に対する応答として引き起こされ、それは、神を悲しませる歩みから、神に喜ばれる歩みへの方向転換を意味する。(放蕩息子のたとえなど) すなわち、悔い改めは、救われるための条件ではなく、神に喜ばれる歩みへの方向転換であり、救いはあくまで、キリストを信じる信仰によると理解しているのですが、この信仰理解は、否定されてしまうのでしょうか。
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お答え>繰り返しになるかもしれませんが、信仰とは、悔い改めを不可避的に含むものです。
悔い改めない信仰などありません。悔い改めという人間の側の行為がなければ、信仰もなにもあったものではありません。
「神様、信じます。でも、悔い改めたくはないです。自分のやりたいようにやります。」というような人の信仰を「信仰」とは呼びません。
それでは、悔い改めは行為ではないのか。行為によって救われるということにならないだろうか。という疑問が起きてくるかもしれませんが、悔い改めは行いではありません。
それまで歩んでいた道において、踵を返して神のほうに向うことがもし行為であると言うならば、キリスト教は行為義認の宗教としなければなりません。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
」(マタイ10・38-39)自分のいのちをキリストのために失った人は救われて、失わない人は滅びるとすらイエスは言われるのです。十字架を負ってキリストに従う気のない人は「わたしにふさわしい者ではない」とすら言われるのです。
「何もする必要はありません。ただ信じればよいのです。」というような安易なものではないということはこの聖句だけでも充分明らかです。
聖書の非常に多くの個所が、悔い改めを神に受け入れられる必須条件としています。
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。 (ホセア 6・6)
たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。 (アモス 5・22)
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 (1サムエル15・22)
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。 (詩篇40・6)
「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。…」(イザヤ1・11)
いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。 (エレミヤ 6・20)
悔い改めと誠実がない礼拝とは、礼拝ではなく、信仰でもありません。
02/02/11