現代の偽預言者
偽預言者とは、マタイ7章において定義されているように、
「実によって見分けることができます。」
「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。・・・こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」
偽預言者は、「天の父のみこころを行」わない者、「主よ。主よ。」と言い、預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行うが、「不法をなす者」であり、「キリストのことばを聞いてもそれを行」いません。
キリストは、26節で次のように言われます。
「だから、わたしの『これらの』ことばを聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」
「これらのことば」とは、何でしょうか。
もちろん、山上の説教全体です。
山上の説教の教えを聞いても行わない偽預言者は、キリストから出た者ではありません。
彼らは、義のために迫害されることなく、キリストのためにののしられたり迫害されることがありません。ありもしないことで悪口雑言を言われることもない。彼らの願いは、キリスト教界で大物になることです。
有名になり、会員何万人のスーパーチャーチを建て、大きな会堂を持ち、全国大会などで委員長を務め、各地の教会から講師として招かれるような牧師になることです。
そのためならば、平気で聖書の内容を変え、耳障りのいい教えで説教を満たします。聖書全体からメッセージをすることはありません。常にトピックメッセージであり、その中心思想は人間中心主義(ヒューマニズム)です。
キリストが「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画たりとも決して廃れることはない。戒めのうち最も小さいものの1つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする」なと言われているのにもかかわらず、律法は今日無効になったなどと言います。
彼らは「イエスはあなたがたを愛しています。」と言うのが好きです。
イエスは、あたかも無条件の愛を振りまく「愛の安売り王」であるかのようです。
「神学ではありません。神の御心は何か。ということが大切なのです。」などという分裂したことを言います。
神の御心は何かを探る学問が神学なのに。
彼らの教えは反知性主義であり、教理を深めることもなく、ただのセンチメンタルな例話で説教を満たそうとします。説教は「甘美」であり、教会を出るときには、みな糖尿病になっています。
このような偽預言者の運命は何でしょうか。
キリストは彼らにこう言われます。
「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
偽預言者は、羊のなりをしてきますが、うちは貪欲な狼です。
彼らは、自分もあなたがたと同じ羊(クリスチャン)ですよ。と言いますが、心のうちには、クリスチャンを食べてしまおうという野心があります。
つまり、偽の教えを信じ込ませて、キリストへの信仰から離し、教会を荒らしまわり、分裂させようとしているのです。
彼らが望んでいるのは、クリスチャンを眠らせることです。
真の正統的な教理から引き離し、人間中心的な「救いの教理」を信じこませ、「この世はサタンの世だ。勝ち目はない。キリストが全部やってくれるから待っていよう」という携挙待望再臨説を吹き込んで、現実世界から目をそむけさせ、この世のことにあきらめさせ、敗北者にしたてあげます。
「全世界の国民をわたしの弟子とせよ。」という命令も彼らの耳にははいりません。「そんな大変なことは引き受けたくありません。わたしは、毎日曜日説教によって信徒に恵みを授け、天国の切符を渡せばそれでいいと思っているのですから。厄介な仕事を押し付けないでください。」などと言います。
霊的な覚醒などを叫ぶが、ただの宗教的センセーションを起こす大会を開くだけで、教会の外にはいっこうに目が向きません。
甘ったるい歌詞のロック調の音楽がガンガン響く中、彼らは異様な明るさを帯びて登場します。
「イエス様はハッピーなお方です。アハハ、アハハと笑っておられるのです。」などと、冒涜的な言葉をはきつづけます。
「今日の教会に元気がないのは、掟、掟に縛られ、勉強ばかりしているからです。」などと言って、クリスチャンに律法を無視するように説得し、聖書を読まないよう、研究しないように誘惑します。
彼らはサタンの弟子です。