不信仰を教える教師を教会から追放せよ
教会成長学は、教会の成長を自己目的化してしまうために、聖書的ではない。
教会は、あくまでも世界を変える(創世記1・28)人々を整えるために存在する。
教会の人数が多くなるかどうかは、二次的な問題である。
教会が世界を変えるために働くときに、教会は成長する。人々にバプテスマを授け、人々を教え、訓練し(マタイ28・20)、世界を神の規範にのっとって運営する人々を養成するという本来の働きに忠実に応えるならば、教会は神に祝福される。
しかし、今日の教会は、プレ・ミレやア・ミレによって、世界を変えるというビジョンを奪われているので、教会そのものが最終目的となってしまっている。
ある会社の支店が、顧客ばかり集めることに集中して、売上を上げることに貢献しなければ、支店長が社長から誉められることはない。
顧客を集めるのは、その顧客に商品を買ってもらうためである。
教会に人が集まるのは、その人々が、世界を神の規範に基づいて統治するためである。それらの人々が、律法を破り、神を第一とした生活をせず、世の中に働きかけず、地の堕落を防ぎ、世に光をともして、正しい道を示すことに失敗すれば、その教会は、まったく御心と異なることを行っているので、祝福されない。
教会は、この日本の社会の堕落と混迷をどのようにしたら解決できるか真剣になって考えなければならないのにもかかわらず、プレ・ミレやア・ミレによって、「社会の堕落は終末の前兆だから仕方がない」といって、地の塩の役割を放棄している。
このような教会がいくらリバイバルを叫んでも、そのようなものはけっして起こらない。
我々は、本来の使命をもう一度見直す必要があるのではないだろうか。
世の中には、本当に困っている人々や、孤児や、虐待によって苦しんでいる子ども達など、我々が積極的に助けなければならない人々がたくさんいる。プレ・ミレは、そのような人々への働きかけを阻害する終末論である。「福音が世界に伝えられればキリストが再臨される。その時、世界からは問題が消えてしまうだろう。それまでの辛抱だ。」となれば、クリスチャンは「待ちの姿勢」になってしまう。
しかし、もし、ポスト・ミレに立って、この世界を神の秩序にまで回復するという大きな目標を与えられて、聖霊の助けを受けながら、我々自身の力によって、世界を愛の世界に変えるために積極的に働きかけるならば、神が祝福してくださるので、本当に世界は変わる。
世界は変わらないとつぶやくのは、神に対する疑いであり、不信仰である。そのような不信仰はサタンに由来する。
教会は、このような不信仰な終末論を教える教師を追い出さねばならない。
教会は、宮清めが必要である。
神が望んでおられる教会に近づけるためには、このような教職者を追放すべきである。