信仰の目によってしか
>> 「しかし、私の創造者である神は私に絶対服従を命じる権利がある」
>だから、それは何故ですか?
>私は、まだこれに納得していません。
>「善」と「悪」に人の勝手な意味付けをしてはいけないというなら、
>ただ創造主であるだけで絶対主権を得る理由があるはずでしょう。
>>人の世の中で、
>>社長自身が「こうしよう!」と宣言したら、他の誰の同意も必要としない。
>となっているからと言って、それが正しいとはいえないでしょう。
(1)聖書が教える創造とは、「無からの創造」です。
創造の前に世界は無かった。神の手による以外にいかなる秩序も善悪も存在しません。
だから、創造者の決定や意志そのものが善であり、それに反することが悪なのです。創造者を越えてそれを評価する善悪の価値体系が存在するわけではありません。「無からの創造」とは、「創造者そのものが法である」ということを意味します。もし、「無からの創造」を行わなかった神であるならば、彼は絶対者ではなく、人間と同じように相対者=「何らかの基準によって評価される対象」でしかありません。
神が善だといったのが、善であり、悪だといったのが、悪なのです。
(2)聖書が無からの創造を教えており、そもそも創造者の前に世界は存在しない、すなわち、「時間や空間や、善悪が、創造者の前から存在していた」と考えることはできないのであれば、万物はことごとく創造者とのつながりを持っていると考えざるをえません。
一つの原子、分子、素粒子も、神とのつながりがないものはない。なぜならば、それらはひとつひとつ神の意志によって創造されたから。
また、それらが、創造者以外のために存在すると考えることもできません。なぜならば、それらは創造者の意志によって創造されたから。
「すべては、神のために存在する」と考えなければ、「無からの創造」と矛盾する。もし、創造の前にすでに空間や時間や善悪が存在していたとするならば、被造物が創造者以外の何かの価値のために存在するということも言えるかもしれないが、創造以前にいかなるものも存在しないのであるから、あらゆるものはことごとく創造者のために存在すると結論せざるをえない。
「万物はことごとく創造者のために存在する」→「創造者が絶対主権を持つ」と言うことができる。
>> 「神はこう言われる」→「どうして神はそう言われたのかわかるのか」
>> →「聖書に書いてあるから」→「どうして聖書が神の言葉だとわかるのか」→
>> 「聖書がそう言っているから」
>これは、私は否定しません。
>ただ、「言葉」が何故、神を伝える事の出来るほどに厳密と言えるのですか?
>「言葉」は神が造った物なのですか?
>それにしては不完全なような気がしますが。
神が直接的に人間の前に現われて、例えば、国会議事堂の上に現われて、「わたしは神だ」と宣言することも可能ですが、そのような「クサイ」やり方は神は採用されません。
あくまでも、人間に信仰を求めておられる。
自らへりくだることをしない人間に対して神は自分を隠されるのです。
なぜならば、神は人格だから。
「神がいるなら見せてみろ」と言う人々の前に「はいはい。」と言って出て行くならば、プライドもへったくりもないです。
神は「見世物」ではありません。
あくまでも、神は人間に対して主権者なのです。
だから、主権者としてのプライドを捨てることは絶対になさいません。
神が何らかの行動をされるならば、それは、人間が自らを低くして、神に従順さを示すことが前提です。そうでなければ創造の秩序は破壊されます。
キリストが神の栄光を捨てられたときですら、このプライドを捨ててはおられなかった。だから、傲慢なパリサイ人は、イエスのことがわからなかった。羊飼いたち、売春婦、漁師たちなど、自分を低くする者たちしかイエスの本質を見ることはできませんでした。
聖書は、このように自分を低くする者を「幼子」と呼んでいます。
さて、聖書は、「へりくだらない人間の目で見ても完全である」必要はありません。
神が国会議事堂の上に超自然的な姿を現して、へりくだらない人間が見ても一目で神だとわかる完全さを表現しないように、聖書も一見すると人間の書物であるように感じられます。
「滅びに至る人々にとって十字架の言葉は愚かである」
神は、国会議事堂の上に現われた超自然的な栄光を現されるのではなく、十字架にはり付けにされたイエスを現されます。
信仰の目は、十字架のイエスを通して神を見ます。