救われる人の数は少ないのか?
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ご質問>いつも富井先生の
HPで、聖書の勉強をさせてもらって感謝しています。そこで今回は、率直なコメントと質問をさせていただきます。私は今日の礼拝で、マタイによる福音書の「狭い門」のメッセージを拝聴しました。滅びにいたる門と道は広く、そこを選ぶ人が多い、との御言葉です。けれど、富井先生の言われるように、もしも、この世界がキリスト教化して行くなら、クリスチャンの通る門や道は狭いわけがないと考えてしまいます。常々、再建主義に興味を持っていたのですが、どうしても信じ切れないのが本音です。狭い門と道が救いの過程だと考えるのが、聖書的なのではないでしょうか?
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お答え>この個所は、「救われる人の数」そのものを問題にしている個所ではありません。つまり、「救われる人の絶対数は少ない」ということを言おうとしているのではありません。この文脈は、「救いよりも滅びのほうが誘惑が大きく魅力的に見えるので、気を付けなさい。」ということを述べているのです。その直後には、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」という警告があります。私たちの回りにも、数多くの宗教がありますが、すべて甘言を弄して人々を集めようとしています。それらのうまい話にのってついていく人は後を絶ちません。救いは狭い門であり、偽預言者が提供するような「広い門」や「甘言」ではありません。
もし、「救われる人の絶対数は少ない」「どんなに頑張って伝道しても、救われる人はあらかじめ神によって少数に限定されているのだから、世界の回復など不可能だ」ということをイエスが言おうとされたとするならば、イエスは、御自身が言われた「世界のすべての国民(原語はτα
εθνη『民族』)を弟子とし、バプテスマを授け、私が命じたすべてのことを守るように教えなさい。」を否定したことになります。また、受肉される前に御自身が言われた「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」というアダムへの命令を否定されたということになります。また、1%や2%のクリスチャンだけで、「キリストの敵を足台とする」(*)ことは現実的ではなく、民族をキリストの弟子とするためには、現在の韓国におけるような民族的リバイバルがなければ不可能です。「キリストの敵を足台とする」ことがなければ、キリストは「天に留まっている」のですから、再臨は先延ばされます。また、たとえこの個所が「救われる人の絶対数は少ない」と言っているとしても、聖書の他の個所においてそのようなことを述べた個所はなく、「聖書の一箇所から教理を作ることはできない」という聖書解釈の原則を犯すことになります。聖書全体の主張と調和させることができなければ、そのような教えを信じるべきではありません。
むしろ聖書は、世界がキリストを礼拝し、律法を喜ぶようになると預言しています。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2・2-4)
(*)
「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル
10・12-13)
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02/02/26