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現代の「預言者」について1

 

今日の改革主義における過度の「直接啓示拒否」は、知性偏重の傾向を生み出した。

 

聖書において、異言も預言もなくなったとは書かれていない。

 

むしろ、パウロは「預言することを求めよ。」と述べている。

 

よく「聖書が完結したので、今日では異言も預言もない。」との発言を聞くが、聖書が完結したことが異言や預言の廃棄につながることを証明する個所は聖書の中にない。

 

例えば、「完全なものが現われれば異言や預言は廃れる。」との個所において、「完全なもの」とは、「顔と顔を合わせて見る」すなわち、死後、クリスチャンが「天においてキリストに見える」ことを意味している。

 

人間は、預言者として創造された。

神の言葉を預かり、それを他者に教えるものとして創造されている。

 

旧約聖書において預言者が全人的に(五感、霊的知覚能力、感情、知性、肉体全体をもって)言葉を受けたのと同様に、クリスチャンも全人的に言葉を受ける。

 

聖書の完結性をもって、人間の全人的預言能力を否定するのは、ギリシャの霊肉二元論の影響である。

 

形而上を善とし、形而下を悪とする価値観は聖書にはない。

 

神は実物を通して預言することを預言者に命じた。

髪の毛をそったり、糞でパンを焼かせたり・・・。

ある預言者は、妻を失った。

 

多くの預言者は、幻視や夢を見た。

言い知れぬ不安を覚えたものもあった。

 

神は人間の全体に働きかけるのであって、今日幻視や夢などの方法によらないとするのは、「旧約時代は物質的、新約時代は霊的」という霊肉二元論の分割法に影響されたからである。

 

神がなぜ恵みの授与の方法として、御言葉の説教だけではなく、礼典におけるパンとぶどう酒を残されたかを悟らねばならない。

 

もちろん、預言や異言において聖書に違反するような示しが与えられることはないだろう。

 

預言も異言も聖書もすべて同じ御霊の働きによるのだから。

 

 

 




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